第27話 遠い場所にも響く音
シン君と会えなくなってから、
私の時間感覚がおかしくなった。
昨日がいつだったのかも、
今日が何曜日なのかも、
どうでもよくなる瞬間が増えた。
ミナコとサキとは、変わらず連絡を取り合っていた。
うちで飲んだり、他愛ない話をしたり。
きっと、二人とも、何かを察していたのだと思う。
シン君の話題は、一度も出なかった。
サキは以前ほど本田さんの話をしなくなった。
ミナコも、MUSEの話をしなくなった。
優しさが、逆に痛かった。
監督に呼び出された後。
私は、何度かシン君にメッセージを送った。
『話聞いたよ。写真のことごめんね。
もう、会えないってことかな?』
既読は、つかなかった。
一度も。
スマホを取り上げられたのかもしれない。
番号を変えられたのかもしれない。
でも、もしかしたら。
――読んで、無視されたのかもしれない。
その可能性が、いちばん心を削った。
MUSEの他メンバーがスキャンダルになった時の噂は、
業界にいれば嫌でも耳に入る。
宿舎へ逆戻り。
マネージャーによる生活管理。
外部との連絡遮断。
活動休止にならないだけでも奇跡。
彼も、きっと同じ状況なんだろう。
そう思おうとした。
それでも、こんなに一言もなく遮断されるの?
この現代でそこまで非人道的なこと、あるの?
頭の中で、理屈と感情が噛み合わない。
そして、私がシン君と過ごした時間が、
人生のほんのわずかな期間だったと気づく。
全部で半年くらい。
それなのに、一生分の喜びが詰まったような時間だった。
本当は彼がいない世界のほうが、
ずっとずーっと長かった。
お互いが最初から存在しなかったみたいな
現実に戻っただけだった。
私は、彼の家を知らない。
事務所に会いに行くこともできない。
彼が、私の家に来ることも、二度とない。
わかっていたつもりなのに。
胸の奥が焼け焦げてしまいそうだった。
--しばらくすると、他にも勝手な思いが頭を駆け巡る。
よく考えたら。
外部を遮断できる出来すぎた温泉宿も。
簡単に距離が縮まったことも。
慣れていたのかもしれない。
芸能人だし。
モテるだろうし。
さらっと始まって、
さらっと終わる。
それくらい、
彼にとっては普通のことだったのかもしれない。
私だけが、本気になっていただけかもしれない。
もしかしたら、もう別の人といるのかもしれない。
胸の奥に、濁ったものが溜まっていった。
卑屈でみっともない妄想が止められなかった。
恋愛の傷は時間が癒してくれると聞く。
新しい人で塗り替えられることがあるとも。
でも、少しもシン君が頭から離れなかった。
仕事をこなしている間も、
ふとした瞬間に涙が出た。
お風呂場で、
ベッドで、誰もいないリビングで。
眠れない夜。
ゲームを始めてみた。
ただただ没頭した。
画面の中に逃げ込めば、
少しだけ現実が薄まった。
だんだん感覚が麻痺していく。
全てがどうでもいい、と思う瞬間が増える。
時間をドブに捨てるみたいな日々。
シン君が来なくなって。
冷たい冬が過ぎた。
泣き濡れたまま、春が来ようとしていた。
そんなある日。
そんなある日。
宣伝で深夜のラジオ番組に呼ばれた。
出番を待つ楽屋では、ラジオを流れていた。
マネージャーがスタッフと打ち合わせをしている間、
私は脚本に目を落としていた。
そのとき。
ラジオから流れてきた声に、指先が止まった。
(……ノア君の歌い出しだ)
次の瞬間、全身の血が逆流する。
♪
ドライブの横顔 照れてる笑顔
真夏の夜空の君を想う
絶対に話すこともできない
会うこともできない
それにあらがうこともできない
叶わないってわかっていても、
今も僕は君のもの
本当に愛してる
誰のものにもならないで
君は今どう思ってる
私のついた嘘に傷つかないで
一番遠くにいても 私の心はあなたのもの
時が経てば道は開ける
君のそばにこっそり忍び寄る
二人の心は変わらない
♪
「ただいまお送りした曲は、MUSEの新作
『真夏の夜の雪』で——」
DJのしっとりとした声が、
胸の奥に落ちた。
雪。
無意識に、胸元のネックレスを指でなぞる。
彼は、私を雪に例えていた。
視界が滲む。
とめどなく涙が溢れた。
胸を内側から切り裂かれるような痛み。
でも、それは絶望の痛みじゃない。
これは——
(私の曲だ)
会うこともできない
でも、今も僕は君のもの
誰のものにもならないで
言葉の一つ一つが
とてつもない衝撃で身体に響く。
しばらく、しゃがんで動けなかった。
震える手を抑えながら、慌ててメイクを直す。
鏡の中の私は、泣いた跡を必死に隠していた。
ラジオ本番では、何事もない顔で笑った。
明るく、軽やかに。
完璧に仕事を終えた。
真夜中。
家にたどり着くなり、玄関に座り込む。
急いでスマホを開き、曲をダウンロードした。
歌詞を検索する。
何度も、何度も読み返す。
シン君が書いた曲『真夏の夜の雪』。
暑い真夏に雪なんて、絶対にあり得ない。
この恋が、それくらい無理だってわかっている。
それでも、季節も常識も時空をも飛び越えて、
どうにかして叶えるーー。
と言う内容だった。
身に覚えのある光景の描写。
言葉と温度。
シン君らしい、まっすぐな表現。
(これは、私のことだ)
確信しかなかった。
それから。
彼のインタビュー、制作コメント、記事。
検索して、読み漁った。
けれどドラマの話題ばかりで、
この曲について多くは語られていなかった。
すぐに、新しいアルバムが発売された。
タイトルは——『最果ての家に帰る日』
その名前を見た瞬間、息が止まった。
胸が締めつけられる。
全ての歌詞を穴が開くほど指で追った。
短時間で何度も聞き直した。
私が押し込めていたのは、
自分の気持ちだけじゃなかった。
シン君の気持ちも、一緒に見ないふりをしていた。
考えないようにしていた。
感受性が強くて
夜も眠れなくなる彼。
この苦しい時間を、
どうやって過ごしていたのか。
想像するだけで、涙が止まらない。
また眠れていないんじゃないか。
身体を壊したまま、舞台に立っていないか。
アルバムが出たということは、
きっとツアーが始まる。
無理をして、笑って、
何事もない顔で歌っているのかもしれない。
それからの私は——
毎日、MUSEのYouTubeばかり見た。
曲を聴いて、映像の中の彼を追いかける。
廃人みたいに。
自分の現実より、画面の中の彼のほうが近く感じた。
私の知らない場所で、
シン君は、何を思って生きてるんだろう?
誰に囲まれて、
どんな夜を過ごしているの?
考えるのは、そればかりだった。
-------
絶望の続く日々の中。
ミナコから、サキとの三人グループにメッセージが届いた。
『薬局に差出人不明の封筒が来たんだけど
MUSEのライブチケットが四枚入ってた』
その文字を見た瞬間、身体が強張る。
(……え?)
すぐにサキの返事が来た。
『本田さんと四人で行こう! 絶対その方がいい』
『これは行かなきゃダメなやつだよ』
ミナコの文面も、いつになく真剣だった。
震えそうな指で、ゆっくりと打つ。
『……うん。行こう』
二人に背中を押されるようにして、
私は一番深くかぶれる帽子を選び、
アリーナの波へ身を投じた。
会場を埋め尽くす二万人。
私たちの席はアリーナ最後尾、壁際の一角。
「……招待枠じゃないから、絶対見つからないね」
サキが小さく呟く。
ノア君が、あえてファンの中に紛れ込ませてくれた。
それが今の私たちに許された、唯一の聖域だった。
開演ベル。
次の瞬間、轟音とともに光が爆発する。
二万本のペンライトが、
一斉にMUSEのカラーに染まった。
眩しすぎる光の海。
残酷なほど突きつけられる。
――シン君と私の、住む世界の違い。
光の向こう。
遥か遠いセンターステージ。
かなり痩せたシン君がいた。
スポットライトを浴び、
この世のものとは思えないほど発光している。
激しいダンスで飛び散る汗が、
ダイヤモンドのように煌めく。
けれど。
MUSEの弾ける笑顔と軽快な掛け合いの中で――
彼だけが、少しも笑っていなかった。
目の前の二万人の熱狂とは、無縁の顔。
その目は、真っ暗だった。
アンコール。
最後に、ノア君が祈るように叫ぶ。
「それでは聞いてください――
『真夏の夜の雪』」
メンバーが手を振りながら歌う中。
シン君はステージの中央で、静かに座り込んでいた。
他のメンバーが優しく繋ぐパートでも、
口パクのまま、虚空を見つめている。
そして、ソロパート。
♪
――でも、僕は君のもの
いつか本当の雪を君とみたい
♪
シン君の声が震えていた。
大型モニターに映し出された頬を、
大粒の涙が伝う。
会場が歓喜に包まれる。
“失恋の名演出”として。
黄色い声援が飛び交う。
――ちゃんと、聞いてるよ。シン君。
シン君の気持ちが届く。
私は涙が止まらなかった。
それでも、必死に目に焼き付ける。
自分の気持ちを、はっきりと知った。
もう迷わない。
どんな世界に引き裂かれても。
それでも――
私は、この人を愛している。
-------
年末年始の音楽番組は、
点滴を打ちながら出演した。
自分のドラマの主題歌だった。
もしかしたら、
どうにか彼女に会えるかもしれない。
そんな淡い期待は、当然叶わなかった。
正月が明けても、
シンは眠り続けた。
作詞作曲の締切が迫り、
メンバーに叱られて、やっと起き上がる。
ノートに並べたユキの言葉。
それを見つめていると、
自然にメロディーが浮かんだ。
作曲室に入った瞬間、
三曲が一気に生まれた。
『真夏の夜の雪』
『最果ての家へ帰る』
『Stand by me』
今までのテーマは、
人生へのエールだった。
生きづらい世の中をどう生きるか。
なのに、今回は全部——恋愛。
(ユキに届いてほしい
俺の気持ち、伝わってほしい
誰のものにもならないでほしい)
身勝手だけど、本音しか出なかった。
苦しんでいるのは、
自分だけじゃないかもしれない。
曲を聴いたら、
思い出してくれるかもしれない。
それだけが、希望だった。
---気づけば、春。あの長くて凍える冬を越えていた。
頭は空白のまま、
アルバムだけが完成していた。
身体は重い。
それでも、ダンスレッスンは容赦なく始まる。
毎日に追われて、恋愛のことなんか忘れる
と聞いていたけれど。
毎日ユキのことばかり考えていた。
家で、マネージャーの視線を感じながら、
ユキのドラマ、ラジオ、YouTube、
インタビューを見続けた。
彼女は少しずつ存在感を増していた。
変わった役や、アーティスト役、
ミステリーの脇役。
確実に、前に進んでいる。
西村リカは、本当に芸能界から姿を消した。
MUSEは新しいアルバムが出た後。
お決まりのライブツアーになった。
少しご飯が喉を通るようにはなったが、
点滴をしながら舞台に上がる。
気力も体力も限界だった。
そして、ユキへの歌を歌いながら、
毎回泣いてしまって、顔がずっと腫れっぱなしだった。
そのツアーが終わる頃。
新しく始まったユキのドラマを見た瞬間、
心臓が凍った。
(ついに……主演?)
恋愛モノ。
彼女の髪は肩の下まで長い。
以前よりかなり柔らかい印象になっていた。
番宣番組もSNSも、全部追いかける。
そこにいたのは、自分の知らないユキだった。
主演俳優はあの顔面国宝の白石。
知っているイケメンというだけで引っかかるのに。
どこでも二人の距離が近い。
ぶつかる肩。
お互いを向いて囁く声。
自然で、楽しそうで。
見るたびに虫唾が走る。
立ち直れない。
法廷ドラマだから、まだラブシーンは遠い。
それでも。
いつか来ると想像するだけで、
胸が焼ける。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
胸がもげそうだ。
それなのに——
ついにユキと白石のスキャンダルが出た。
深夜の飲み屋街。二人で歩く写真。
週刊誌の見出し。
頭が真っ白になる。
自分が信じてきた彼女は、どっちだ。
週刊誌の中の彼女か。
あの日、自分に誓った彼女か。
それとも——
もう、自分の知らない誰かの隣にいる彼女か。
シンの世界が、また音を立てて崩れた。




