表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

26/31

第26話 奈落の底の暗闇

 私の人生で、最高に幸せな二ヶ月が過ぎた。

十一月の、ある朝。

その日も、シン君の寝起きの顔で目が覚めた。

「おはよー、ユキ」

「おはよー」

おでこをくっつけて、くすくす笑う。

白いシーツの中。

彼が私のネックレスの雪の結晶にそっとキスをした。

視線が絡む。

それだけで胸がいっぱいになる。

いつものおにぎりを持って、彼が階段を駆け下りていく音。

すぐ目の前の駐車場へ走る背中。

エンジンがかかる音。

その小さな日常が、かけがえのない宝物だった。


午後。

「ユキちゃん、少しだけ時間もらえるかな?」

珍しく、以前のドラマの工藤監督から直接電話が入った。

マネージャーと確認し、すぐに返事をする。

「はい、今日なら大丈夫です」

制作会社の会議室に入ると、

監督、プロデューサー、秘書らしき数名が揃って待っていた。

空気が、妙に静かだった。

「お話しておこうと思ってね」

監督が咳払いをする。

嫌な予感がした。

「最近、シン君と、ユキちゃんずいぶん仲がいいでしょ?」

「役のおかげです」

なるべく平静を装って答える。

「本当に、それだけかな?」

視線が交差する。


助監督が口を開いた。

「実は、主題歌をお願いしに行った時の話なんだけどね。

 本当は別の俳優で音楽家役は決まってたんだ」

監督が続ける。

「そしたらシン君がね、主題歌はやる。

 ただし、自分を音楽家役にしてほしいって言い出したんだよ」

「普段そんなこと言わないらしいね。マネージャーもすごく驚いてたし」

プロデューサーも腕を組んだ。

「こちらとしてはチャンスだった。シン君の初出演作になるし。

 MUSEの宣伝効果は計り知れないでしょう」

決まっていた俳優には、次回作で主演級を確約して降りてもらった、

と淡々と告げられた。


頭の中が真っ白になる。


「……全く、知りませんでした」

私の反応を見て、彼らは小さく目配せした。

「だからね。MUSEの事務所サイドも、

 シン君が、最初から君を気に入ってたんじゃないかって懸念してて」

「そんな、まさか」

「まあ、制作サイドははありがたい話だったよ。

 “仲の良さ”がSNSで盛り上がったしね」

一拍置いて。

「でも……二人の関係が、それ以上に見えてきてしまって」

その言葉だけが、重く落ちる。


大人たちに囲まれた会議室。

ここまで、踏み込まれるのか。

胸の奥の、一番柔らかい場所にまで。

でも、わかっている。

この人たちの仕事の先に、たくさんの人の夢があることも。

ここで感情を出す資格は、私にはない。


「MUSEは今、とても大事な時期だ。

 恋愛はタブーだって、わかってるよね?」

「……わかっています」

自分の声が、驚くほど落ち着いていた。

「たくさんのファンの方が応援していますから」

「君が理解してくれているなら安心だ」

室内の空気が、少しだけ緩む。

(心の中で思うだけなら、誰にも何も言われないよね)

もともと私は、

遠くから見ているだけで幸せだった。

元気な姿が見られればいい。

たまにこちらへ笑いかけてくれれば、それで十分だと。

そう思っていたはずなのに。

胸の奥で、何かが静かにきしんだ。


--ほとんどの話が終わった後。

監督は、他のスタッフを全員部屋から出した。

うちのマネージャーまで外に出ることになり、胸がざわつく。

「ごめん、あと少しね」

そう言って、監督は声を落とした。


「実は……MUSEのマネージャーのところに、

 二人の写真が届いたらしい」

「……え?」

一瞬、耳鳴りがした。

「メディアや記者からじゃない。探偵事務所からだそうだ」

探偵。

その言葉だけで、背筋がひやりと冷える。

(もしかして、私たちの日常が……?)

「シン君が、ユキちゃんの家に行く様子。

 結構、撮られていたみたいで……」

息が止まりそうになる。

家の前。

階段。

駐車場。

あの何気ない時間が、誰かのレンズの中にあったのかもしれない。

「事務所が処分するらしい。俺は絶対に秘密は守る」

「……ありがとうございます」


頭を下げることしかできなかった。

言い訳も、弁明も、何も浮かばない。

「本当は、俺は二人を応援したいくらいなんだ。

 でも……今後の活動に支障が出る前に、

 ご本人達がどうするのか決めるべきだと思って」

その言葉は、優しかった。

「秘密にしてくださって、ありがとうございます。

 今後、MUSEの皆さんや、工藤監督達にもご迷惑をかけないよう、

 自分の気持ちは整理します」

自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。

「……申し訳ないね」

監督は何度も手を擦り合わせた。


「きっかけが僕たちの作品だったから。

 何かあれば、ドラマの宣伝という形で守るから」

「ありがとうございます」

「また一緒に仕事しようね」

「はい。ぜひ、よろしくお願いいたします」

制作会社を出ると、空気がやけに冷たかった。

マネージャーから事情を聞く。


MUSE側と“距離を保つ”形で話がまとまり、

写真も処理されるらしい。

「もう会わないし、連絡しないって約束してくれる?」

「うん」

「落ち込んでる?」

「大丈夫。ファンの皆さんあってのMUSEだから。

 それより、もっと仕事頑張るね」

自分でも、よくそんなことが言えたと思う。

マネージャーとはそれ以上深く話さず、

新しい台本を開いた。

文字が、にじんで見えた。


そして、静かに理解する。

シン君は、もう来れないだろう。

あの階段を駆け上がる音も、

「ただいま」と抱きしめてくれる腕も、

眠る前の体温も。

全部、遠いものになる。

初めから、彼が恋愛ができないだろう、と言うことは

理解していたはずなのに。

やっぱりそれでも、苦しかった。

心の奥で、誰にも聞こえないように泣いた。


(このまま、会えなくなるかもしれない。

 もう、一生、話せないかもしれない)


それでも。

あの二ヶ月は、宝物だった。

たった二ヶ月でも。

シン君が隣にいてくれたことも、

私が彼を想えたことも。

誰にも奪えない。


私だけの、宝物。


-------

 十一月のある日。

シンは、いつものように作曲のため出勤し、

一通りの作業を終えて、昼食を済ませ、

事務所へ戻ったその時だった。

ノアが、真っ青な顔でこちらを見ていた。


(こっち来たらまずいって!)

声に出さなくてもわかる。

全身でそう叫んでいる顔だった。

——しまった。

どこかに寄って、

スマホの一つでも隠しておくべきだった。

激しく後悔した。


会議室に入った瞬間、空気が違った。

マネージャー達が、MUSE全員を座らせている。

逃げ場のない配置だった。

すぐに見つかり、スマホを取り上げられる。

差し出されたのは新品の端末。

「これからのお前のスマホはこっちになるから」

「……データは?」

「重要なものは後で渡す」

何も言えない。

言える空気じゃない。

「俺たちがやっていることが、非人道的に見えるかもしれない」

低い声が響く。

「だが、アイドルとして、ファンありきの仕事をしている限り——

 お前達のプライベートも、意識を高く持って行動してほしい」

「週刊誌に出たり、騒がれたり、何か起こった後では遅い」

その時まで、シンは思っていなかった。


——まさか、自分のことがバレているなんて。

「以前、リンタロやユウマ達の熱愛記事が出た時。

 抗議のデモカーが来て、ニュースで叩かれ、

 事務所の電話が鳴り止まなかっただろう」

「存続の危機が続いて、お前達が復活するまで、

 どれだけ時間がかかったか忘れたのか」

全員が黙る。

「しばらく二部屋での宿舎生活に戻る。

 マネージャーも厳戒態勢でつく。そのつもりで」

それだけ告げられ、解散。

暗い顔のまま、メンバーはそれぞれの仕事へ戻っていった。

——シンだけが、残された。


 音楽作業室へ向かおうとした瞬間。

「一度、話をしよう」

数人のマネージャーに囲まれ、

作業室手前のソファに座らされる。

目の前に、写真が置かれた。

「——!!」

声が出ない。


ユキの家に通う自分。

窓から外を眺めるユキ。

玄関へ入っていく姿。

何枚も。

「まさかシンが、俺たちの目を欺いていたとはな」

「……」

「週刊誌からじゃない。探偵事務所から来た」

探偵?ため息が漏れる。

「俺はビジュアル担当じゃないし、

 人気がある方でもない。

 だから……もっと自由にできると思ってた」

「お前もアイドルの一員だ。ファンが大勢いる」

その言葉に、息が詰まる。

「俺は責任を問われたら、やめるしかできない」

シンは強い声で彼らに言い放つ。

だが、マネージャーは首を振った。

「……申し訳ないが、ユキさんの方はそうでもないらしいぞ」

「え?」

「彼女の事務所から連絡があった。

 もう会わないし、連絡もしないと誓ったそうだ」

頭が真っ白になる。


「ファンの皆さんあってのMUSEだから、ってな」

「彼女は、皆の立場を守りたいだけだ。

 本心じゃないはずだ」

「わからないだろう?

 アイドルと遊んでみたかっただけかもしれない」

「そんなわけない」

「こんなにあっさり身を引くなんて、軽い気持ちだったんだろうよ」

絶対違うとわかっている。

それでも胸の奥が、ざらつく。


「それより——探偵の依頼主は、西村リカだな?」

シンは強い声で聞いた。

「……よくわかったな」

「事務所でも調べた。

 四六時中見張らせて証拠写真まで送るなんて、相当危険人物だ」

「西村リカはこっちと接近禁止命令も出てるはずだろ」

シンの強い声に、マネージャー達も頷く。

「ああ。もう向こうの事務所にも報告済みだ」

「工藤監督曰く、セットの破損も西村リカの仕業だったらしいし。

 他にも問題多かったらしい」

「事務所も契約更新するつもりはないそうだ。

 今後の活動は無理だろう」

その言葉を聞いた瞬間、

ユキに伝えたい気持ちが溢れた。

——終わったんだ、と。


「……だがな」

マネージャー達は首を振る。

「西村の件と、お前達の交際は別だ」

「申し訳ないが、交際は認められない」

「俺、もう三十超えてんだよ?」

「今はアイドルは年齢じゃない」

「十年以上やってきたのに、こんな——」

「本当に売れたのは、ここ四年だ」

怒りが込み上げる。

「もう作曲どころじゃない」

「頭を冷やせ。

 お前がヘソを曲げれば、MUSEどころか

 ユキさんの事務所に圧力がかかるだけだ」

「じゃあ、結婚する」

「バカ言うな」

「じゃあ、いつなら認められる?」

沈黙。

「……四十過ぎてからかな」

「絶対無理だ。ふざけんな!!

 もう作曲はしない!!」

感情が爆発したまま、

その日シンはマンションへ戻った。

自室に閉じこもった。


翌日も、その次の日も。

マネージャーが交代で付き、

新人まで投入され、

生活のすべてが監視下に置かれた。


自由は、完全に奪われた。

同じマンションの階を分けて暮らしていたメンバー達も、

二つの部屋にまとめられ、共同生活に戻された。

荷物も寝具も管理下。

私物は最小限。


「軍隊生活に逆戻りかよ……」

「このご時世に……俺たち、もう自由はないのか?」

「今は金貯める時期だって思おう。

 後で思い切り人生楽しめばいいだろ」

それぞれが、諦めや冗談を口にする。


「そうだよ!今頑張って、音楽の歴史に名を刻もうぜ!」

ノアが明るく声を上げる。

空気を軽くしようとしているのが、痛いほどわかった。

今までは、

ここでしかできない音楽のために、全力で走ってきた。

アイドルとしてだけじゃない。

アーティストとして認められたくて、必死だった。


--でも今はもう、

何も残っていなかった。

やる気も、情熱も、怒りすらも。


以前と反対に、不思議なほど眠った。

眠って、眠って、眠り続けた。

逆に起き上がれなかった。

目が覚めると今度は、何も食べられなくなった。

何を口にしても、飲み込めなかった。

ユキの家から持ち帰ったジャージと五円玉を

抱きしめて眠り続けた。

一緒に過ごした時間を証明できるものは、

他に何一つなかった。

会いたい。

毎日、会いたい。


二人で出たドラマのサブスクを開き、

彼女の登場シーンだけを何度も再生する。

優しい瞳。

キスをする時の、伏せられたまつ毛。

唇の角度。鼻筋。首筋。

全部、覚えている。

愛しくて、寂しくて、

涙が止まらない。

あんなに近くにいたのに。


シャンプーも、リンスも、石鹸も、

全部、彼女の家と同じものに変えた。

そうしなければ、

彼女の気配が、自分の中から消えてしまう気がした。

そんなこと、耐えられない。

覚えている限りの会話を、

ノートに書き残す。

言葉。声色。間。

電話番号も書いておけばよかった、と何度も思った。

次どこかで見かけたら、

必ずメモを渡す。

全部、書き留める。


Googleマップで住所を探し直し、

何通も手紙を書いた。

たとえ届いても、

返事は無理だとわかっている。

「ファンレターに紛れて偽名で送ってほしい」

「大きめの便箋で」

そんなことまで書いた。


けれど、ポストにすら

一人で勝手に行くことはできなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ