第25話 最果てにある幸せ
夜九時。
私がお風呂から上がると、
大きな荷物を抱えたシン君がやってきた。
「おかえり」
「ただいま。俺も入っていい?」
急いでシャワーを浴びる彼。
しばらくして出てくると、
浴室には彼のシャワータオルがかかり、
歯ブラシスタンドには青いものが一本増えていた。
それだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
缶ビールを片手に、二人でドラマを観る。
「いやー!」
「ひいー!」
自分たちの演技に照れて騒ぐ。
それでも画面に映るシン君があまりに美しくて、思わず見入ってしまう。
「恥ずかしいね」
「うん……」
笑いながら、肩が触れ合う。
そのまま布団に入ると、
心地よくて、温かくて、すっと眠りに落ちた。
次の日も、その次の夜も。
シン君はほとんど毎晩のようにやってきた。
大きな鞄から出した服を一緒に洗濯し、並べて干す。
私の部屋に、少しずつ彼の気配が増えていく。
夕食を囲む時間はなかなかないけれど、
毎晩お茶で小さく乾杯をして、
柔らかなシーツに包まれて眠る。
彼の隣だと、驚くほどよく眠れた。
不眠症だと言っていた彼も、安心したように深く眠っている。
「俺も、ユキの匂いになってきた。
これってシャンプーの匂いだったんだ」
髪に触れて、ぽんぽんと撫でる。
「本当だね。
毎回、こんな遠くに帰ってきてくれてありがとう」
私もシン君の髪に触れた。
「全然。こっちがもう俺の中心だよ」
満面の笑みで抱きしめ返される。
その言葉が、胸の奥に静かに根を張った。
朝、スマホにメッセージが届く。
『トンネルのとこ、また渋滞』
『ユキの握ってくれたおにぎり、ほんと美味い』
おにぎりを頬張る自撮り付き。
思わず笑ってしまう。
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彼が頻繁に来るようになって、三週間。
私の狭い部屋は、世界で一番甘くて優しい場所になっていた。
私は次のドラマの脇役が決まり、撮影や打ち合わせが続いていた。
MUSEはYouTube撮影が続いているらしい。
比較的穏やかなスケジュールの中。
今日も、夜九時。
扉がノックされる。
開けるたびに、夢みたいで、少しくらくらする。
玄関で、靴も脱がないまま、
扉が閉まるのと同時に大きな腕に包まれた。
「ただいまー」
「おかえり」
顔を見合わせて笑う。
「あ、俺、汚しちゃったかな?」
「大丈夫だよ」
「すぐシャワー浴びるわ!」
慌ただしく脱いでいく背中を見送りながら、
胸の奥が、静かに満たされていく。
シン君は急いでお風呂場へ行き、
髪も半乾きのままパジャマ姿で戻ってきた。
手には、さっきまで着ていた上着。
「ちょっと涼しかったから、今日は上着着て来ちゃった」
「ハンガー持ってくるね。とりあえず椅子にかけてて」
そう言って寝室奥の棚を開けた、その瞬間。
背中に、いきなり彼の強い腕が伸びてきた。
「わっ」
よろめいた拍子に、普段は開けない棚の扉に手がかかる。
(あ……まずい)
ガタ、と音を立てて開いた扉。
次の瞬間――
アクスタ。
うちわ。
クリアファイル。
ライトスティック。
シン君のグッズが、床にばらばらと散らばった。
「え……ええ?!」
彼が口元を押さえる。
(終わった)
私は反射的に床に膝をつき、そのまま深々と頭を下げた。
「すみませんでした。騙していました。
ファンだって、ずっと黙っていました」
沈黙。
「これ、三年前のライブのだ……
俺と会う前のじゃん……しかも全部俺の……」
「はい……すみませんでした」
三つ指をついて土下座した。
「ユキの推し、俺じゃん」
「いかにも」
「いかにもって……ハハハハ!」
彼はお腹を抱えて笑った。
でも次の瞬間、ふっと声のトーンが落ちる。
「まさか、ファンの子だったとは」
胸が冷たくなる。
「ストーカーじゃないんです。
本当にはじめ偶然で、ドラマも偶然で……」
私は膝をついたまま、彼を見上げた。
「いつからファンなの?」
「高校の終わりからです」
「ってことは、デビューしてすぐだ」
もう一度、頭を下げる。
「母もいなくて、お金もなくて。
ずっとお腹が空いてて。勉強より働くしかなくて。
そんな時、シン君の曲を聴いて、
毎日を頑張ったら、楽しくなるかもって」
声が震える。
「全部のアルバム曲も……
シン君の歌詞は全部、刺さって。
自分の毎日を少しでも素敵にしようって、励まされました」
顔を上げられない。
--ひとときの沈黙。
--突然、思い切り強く抱きしめられた。
「シン君?」
頬が触れる。
熱い。濡れている。
「なんで泣いてるの?」
彼はさらに強く抱きしめる。
「ユキ、ありがとう。
一生懸命生きてきてくれて。
こんなに素敵な心で、綺麗になってくれて」
鼻をすする音。
「俺の前に現れてくれて、ありがとう」
涙のまま、額や頬にキスをくれた。
「俺の言葉が届いてたのもすごいし、
ここまで来てくれたのもすごい」
二人で、泣きながら笑った。
「昔のユキも、今のユキも、全部俺の宝物」
「私、ずっとシン君一筋だったから」
小さく囁く。
その声を、彼はそのまま吸い込むようにキスをした。
「ふふふ。今のなに?」
「その言葉も全部、俺のものにしたい」
寝室の床で、強く抱きしめられる。
彼は私の胸に甘えるように顔を埋めてきた。
「ユキ。今日、俺の全部あげたい。
俺にもユキの全部ちょうだい」
真っ赤な顔。
真剣な目。
私は、ゆっくりとうなずいた。
彼は私を抱き上げ、ベッドへ、そっと横たえる。
降り注ぐキス。
おでこへ、頬へ、首元へ。
世界で一番幸せだと思った。
白く愛しい肌に包まれながら、私も彼を抱きしめる。
カーテンの隙間から、小さな星が三つ見えた。
宇宙中のお星様に祝杯をあげたいと思った。
――でも、この時。
部屋の外で何が起きているのか。
私たちは、まだ何も知らなかった。




