第四話 追跡
王都の朝は、何事もなく進んでいるように見えた。
店は開き、人々は行き交い、昨日と変わらぬ日常が続いている。だが、その日常の下では、目に見えない動きが確かに存在していた。
それは一瞬の出来事として現れる。
叫び声。
走る影。
そして、それを追う者たち。
気づく者は少ない。
だが、見逃さない者もいる。
リディアは、油屋へ向かう通りを歩いていた。
蒼月亭へ戻るための最後の買い物を終えるために。
その時だった。
「止まれ!」
鋭い声が、通りの向こうから響いた。
「待て!」
続けて、複数の足音が石畳を叩く音が聞こえる。
リディアは歩みを止めず、視線だけを動かした。
前方の通りを、黒ずくめの男が走っていた。
全身を黒い布で覆い、顔も隠している。無駄のない動き。速い。
その後ろを、兵士たちが追っている。
「止まれ!」
兵士の声が再び響く。
だが黒ずくめの男は速度を落とさない。
通りの角で、男は一瞬だけ体を傾け――路地裏へと滑り込んだ。
兵士たちが続く。
だが、路地の中に入った兵士たちの足が止まった。
「くそ……!」
兵士の一人が吐き捨てる。
「どこへ行った!?」
路地は狭く、入り組んでいる。視界は悪い。
黒ずくめの男の姿は、すでに見えなかった。
兵士たちは周囲を見回し、舌打ちする。
「見失った……」
別の兵士が言った。
「報告しろ」
「はい」
兵士の一人が頷く。
「ダリウス隊長に報告します」
その言葉を、リディアは聞いた。
表情は変わらない。
だが、わずかに視線を伏せる。
(ダリウスが大変そうね……)
小さく思う。
兵士たちはすぐに散開し、周囲を探し始めた。
だが、黒ずくめの男の姿はどこにもない。
通りは、再び日常に戻り始めていた。
人々は何事もなかったかのように歩き始める。
だが、リディアは動かなかった。
視線は、男が消えた路地へ向いている。
油屋は、この先にある。
買い出しは、それで終わる。
蒼月亭へ戻るための準備は整う。
だが――
リディアは静かに息を吐いた。
足の向きを変える。
油屋とは反対の方向へ。
黒ずくめの男が消えた路地へと向かった。
路地は静かだった。
人の気配はない。
だが、完全に消えたわけではない。
わずかな痕跡が残っている。
足音の消え方。空気の流れ。動きの余韻。
リディアはそれを追った。
無理に急がない。
だが、確実に進む。
路地を曲がる。
さらに奥へ。
王都の表通りの喧騒が、徐々に遠ざかっていく。
影の多い場所。
人の目が届きにくい場所。
黒ずくめの男は、こうした場所を選んで逃げている。
リディアは立ち止まり、周囲を見た。
気配はない。
だが、完全に消えたわけではない。
この近くにいる。
彼女は再び歩き出した。
静かに。
音を立てず。
追跡は始まったばかりだった。
黒ずくめの男は、王都の中で兵士たちを振り切った。
それは偶然ではない。
訓練された動きだった。
兵士たちは彼を見失い、報告のために動き始めた。
その名――ダリウス隊長。
王都の中で、何かが確実に動いている。
リディアは油屋へ向かうのをやめた。
代わりに、影を追う道を選んだ。
それは任務ではない。
義務でもない。
ただ、自らの判断だった。
王都の影の中で、追跡は続く。




