第3章ノ2 ツナと大根の煮物
五郎とともに厨房へ降り立つと、ひんやりとした空気が頬を撫でた。新しい制服に身を包む。ただそれだけで魔法にかかったように、ほまれの気分はいつもより高揚していた。
「今日はとりあえず、おばんざいに使えるものを何品か作ってもらおうか」
五郎の指示に、二人は「はい!」と声を揃えて仕込みを手伝う。慣れない作業ではあったが、隣にひめがいて、背後に五郎の気配がある。それだけで、ほまれの心は凪いでいた。
集中して仕込みを続けていると、ふと、厨房の窓ガラスから鮮やかなオレンジ色の光が差し込んだ。視線を向ければ、空はいつの間にか深い夕焼け色に染まっている。
「よし、そろそろ店を開けるぞ」
五郎が開店の合図を告げた。その言葉は、静かな厨房に心地よい緊張感をもたらす。
「ねぇ、ひめ!」
不意に、ほまれがひめを呼び止めた。
「さっきミシン使ってるときに、ついでに作ってみたの。……これ、つけてみて」
ほまれの手には、丁寧に縫われた幅広のピンク色のスカーフが握られていた。
「えっ」と驚くひめの首元に、ほまれは少し照れながらスカーフを結んだ。
「実はこれ、お揃いなの……」
ほまれは、もう一つ赤いスカーフを取り出すと、自分の首元に巻いて見せた。
それは、ほまれなりの精一杯の友情の証。ひめは一瞬きょとんとした後、パッと顔を輝かせて、首元にそっと触れた。
「ほま、ありがと!」
「うん! ひめ、今日も頑張ろうっか!」
二人は、制服の袖を気合を入れるようにまくり上げた。
ガラガラ……と、店の引き戸が開く音がした。
「……いらっしゃいませ!」
二人の元気な声が店内に響く。
入ってきたのは、ネクタイを少し緩めた中年のサラリーマンだった。しかし、足取りはどこか重く、顔色も冴えない。カウンターに腰掛けるなり、彼は小さくうめくように肩を落とした。
「……あー、すまない。何か、さっぱりしたものを……。実は昨日、飲みすぎてしまって……」
「えっ、二日酔いですか? 大丈夫?」
ひめがすぐさま冷たい水を持って駆け寄り、親身になって話を聞き始める。彼女の明るいトーンに、客の男性も少しだけ表情を緩め、つらつらと昨夜の失敗談を話し出した。
その様子を厨房の奥で見守っていた五郎が、トントンとほまれの肩を叩いた。
「ほまれ、出番だ。二日酔いなら『大根』がいい」
五郎は立派な大根を取り出すと、ほまれの前のまな板にドンと置いた。
「大根に含まれる消化酵素は、弱った胃腸を助け、アルコールの分解を促してくれる。これとツナを使って、体に優しい煮物を作れ」
「……はい!」
ほまれは深く頷き、包丁を握った。ひめがお客さんの心をほぐしている間に、自分は体の中から癒やすものを作るのだ。
トントントン、と軽快なリズムで大根を切る。迷いはない。5ミリほどのいちょう切りにした大根をたっぷりの水で10分ほど下茹ですると、特有のえぐみが抜けて味が染み込みやすくなる。
下ごしらえを終えた大根を深めのフライパンに移し、ツナ缶をオイルごと投入する。そこにカツオ出汁200ml、醤油大さじ2.5、みりん大さじ1、砂糖大さじ1/2、オイスターソース小さじ1を加え、落とし蓋をして中火でコトコトと煮込んでいく。
やがて煮汁が煮詰まり、大根がほんのりと優しい琥珀色に染まったところで火を止める。ツナの旨味をたっぷりと吸い込んだ大根が、ツヤツヤと輝いていた。
「お待たせいたしました。『大根とツナの煮物』です」
ほまれが少し震える手で差し出した小鉢。透明感のある大根から、湯気がふわりと立ち上る。
「……あぁ、いい匂いだ」
男性が箸をつけ、大根を一口食べる。その瞬間、彼の表情がパッと明るくなった。
「……沁みるなぁ。優しい味だ。不思議と、胃の重さが引いていく気がするよ」
「本当ですか!? よかったぁ!」
ひめが自分のことのように喜び、ほまれの元へと駆け寄る。
「ほま、やったね!」
二人は自然と両手を取り合い、顔を見合わせて弾けるように笑い合った。ひめの明るい接客でお客さんの心をほぐし、ほまれの優しい料理で体を癒やす。初めて二人の歯車がカチリと噛み合い、見えない絆がぐっと深まった瞬間だった。新しく作ったお揃いのスカーフが、互いの胸元で嬉しそうに揺れている。
五郎は厨房の奥で、その様子を眺めながら満足そうに鼻を鳴らした。
***
暖簾を下ろし、厨房の片付けをすっかり終える頃には、賑やかだった月見商店街もすっかり寝静まっていた。古い柱時計のチクタクという規則正しい音だけが響く、深夜の「こいこい」。
「お先にお風呂いただきましたーっ」
湯気を漂わせながらリビングに現れたひめは、バスタオル一枚の姿だった。豊かな胸元が危ういほどにはみ出しているが、本人は全く気にする様子がない。
ソファで濡れた髪のままテレビを見ていたほまれは、慌てて視線を泳がせた。
「あれ、五郎さんは?」
ひめが首を傾げて尋ねる。
「えっ……えーと!」
ほまれは、自分のすぐ横にちょこんと座っている猫の姿の大五郎を、横目で必死に盗み見た。
「五郎さんは……ほら、疲れたって、先に寝ちゃったよ」
「ふーん。なんだ、お風呂入るのかと思って早めに出てきちゃった」
ひめは少し口をすぼめると、ほまれの横にいる「猫」に目を留めた。
「あれ? もしかしてこの子、最初に五郎さんが言ってたキュートな猫ちゃん?」
「え、あ、えええと!」
ほまれが止める間もなく、ひめはバスタオル姿のまま大五郎へとにじり寄る。近づいてくる圧倒的な胸元を前に、大五郎の瞳孔がみるみるうちに開ききっていく。ひめは大五郎の目の前で身をかがめ、顔を近づけた。その瞬間、バスタオルに包まれた胸元が、大五郎の至近距離で大きく揺れる。
「ひ、ひめ! む、胸が! はみ出てるってば!」
「大丈夫だよ、五郎さんいないんだし。それよりこの猫、おもしろーい!」
ひめは無邪気な笑顔で、大五郎の最大の特徴であるちょんまげを、指先でツンツンとつついた。大五郎は石のように硬直したまま、瞳孔を限界まで開き、ひげをぴくぴくと小刻みに震わせている。
「っツ!!」
突然、ひめが顔を真っ赤にして勢いよく身を起こした。
「今、この猫すんごいスケベな顔したっ!!」
「えっ!?」
ひめの興奮気味な叫びに、ほまれが慌てて大五郎に目をやる。そこには、鼻の下をびよーんとだらしなく伸ばしている大五郎の姿があった。
「そ、そんなわけないよ! 猫だよ!?」
ほまれは裏返った声で必死にごまかす。
「嘘! 絶対鼻の下伸ばしてた! この猫!」
「ま、まさか! ひめの思い過ごしだよ! あはは、あははは……!」
ほまれは冷や汗を流しながら、大五郎の頭を正気を取り戻させるようにポンポンと、いや、少し強めに叩いた。二人の声が、リビングに心地よく響き渡る。
その様子を、奥の部屋から静かにおばあちゃんのミシンが見守っていた。




