第4章ノ1 菊に盃
頭上から容赦なく照りつける太陽が月見商店街を熱気とともに包み込んでいた。アスファルトからは白く揺らめく陽炎が立ち上り、街路樹で鳴くセミの声が頭に響く。ほまれは首に巻いたタオルを握りしめ、額からダラダラと流れ落ちる汗を拭った。
ふと横を見ると、ひめと五郎は汗ひとつかかず、けろっとした涼しい顔で歩いている。
「……ひめ、五郎さんも。二人とも、暑くないの?」
ほまれが「こいこい」を手伝い始めてから、一週間ほどが経った。7月に入り、梅雨明けとともにやってきた本格的な夏は、いよいよその牙を剥き始めていた。
「私は全然平気ー」
「俺も暑いのは平気だな」
二人は今にも溶けて消えてしまいそうなほまれを横目に、涼しい顔でスタスタと歩を進める。ひめは豊かな胸元を軽やかにハンカチで押さえ、薄手のサマーニットをぱたぱたと揺らした。
二人の背中を追いかけながら、ほまれは改めて商店街を見渡す。子供の頃の記憶とはまるで違う景色に、胸がちくりと痛んだ。
道にいくつも並んでいた立てかけ式の看板や店頭のワゴンはなくなり、今はただ無機質なアスファルトが白茶けてむき出しになっている。ぽつぽつとある店舗も、営業しているのか判然としない半開きのシャッターばかり。そのほとんどは、鍵を下ろしたまま固く閉ざされていた。
「えーと、挨拶回り、酒屋さんと有明精肉店で終わりだっけ?」
ひめが、五郎に手渡された手書きのメモを片手に言った。 これから本格的に店を回していくにあたり、祖父の代から仕入れでお世話になっていた店へ、改めて顔を出して挨拶回りをしているところだった。
「酒屋さんって……『菊池酒店』だよね?」
ほまれは、もう一度酒屋の名前を確認すると、ふいに胸の奥が高鳴った。
舗装された道を進み、角を何度か曲がると、ほどなくして紺色の暖簾を下げた酒屋が見えてきた。店の前には配達用のトラックが止まっており、一人の少女が重そうなプラスチックのビールケースを荷台から下ろしているところだった。
ほまれは弾かれたように駆け出し、勢いよく声をかけた。
「さいか!!」
ビクッと肩を揺らし、少女がこちらを振り返る。
「……え!?」
少女は目をまん丸に見開いた後、徐々にその口角をぱぁっと引き上げた。
「ほまれ!?」
さいかは手にしていたケースを地面に置くと、勢いよく駆け寄り、ほまれにぎゅっと抱きついた。オレンジ色のおさげ髪に、ぽつぽつと散らばる愛らしいそばかす。にっこりと笑うその顔は、記憶の中の親友そのものだった。
「いつ戻ってきたの? ちっちゃい頃と全然変わんないね!」
さいかは、ほまれの特徴的な三段のオニオンツインテールを、愛おしそうに優しく撫でる。
「さいかこそ、小さい時のまんまだよ!」
ほまれも、さいかの髪を指先でそっとなぞり、二人は顔を見合わせて笑い合った。
「あ、こっちはお友達?」
さいかの視線がほまれの後ろに立つひめと五郎へ向けられた。
「えっと……今『こいこい』で一緒に働いてる五郎さんとひめちゃん!」
ほまれが紹介すると、二人は「どうも」と軽く会釈を返す。
ほまれは祖父が亡くなったこと、そして五郎と出会い「こいこい」を再開した経緯をさいかに話した。もちろん、五郎の正体が『大五郎』という猫であることは、口が裂けても言えなかったが。
「そっか……。ほまれがお店を守ってくれるなら、天国でおじいちゃんも絶対に喜んでるよ」
「そうだといいんだけど……」
ほまれは少しだけ目を伏せ、複雑な色を帯びた瞳で足元を見つめた。自分の腕で本当に『こいこい』を守っていけるのか、まだ確信は持てない。けれど、幼馴染の言葉は、不安でこわばっていた心にほんのりと温かい火を灯してくれた。
かすかに口角を上げ、照れ隠しのようにうつむくほまれの横顔を見て、 五郎が落ち着いた声で切り出した。
「ところで……お父さんは今いらっしゃいますか? 今後の仕入れの話をしたくて」
「はい! 奥にいますよ。皆さん暑かったでしょ、上がって冷たいジュースでも飲んでいってください!」
さいかに案内され『菊池酒店』の暖簾をくぐると、ひんやりとした空気が火照った体を包み込んだ。 店内の壁際や中央には木製の陳列棚が整然と並び、全国各地の日本酒や焼酎の瓶が所狭しと並べられている。色とりどりのラベルが貼られた琥珀色や透明の瓶は、店内の柔らかな照明を反射して静かに輝いていた。
「うわぁ……すごい種類」
圧倒されて棚を見上げていたひめが、ふふっと楽しげな声を漏らした。
「そうなの!」
さいかが冷えたジュースの乗ったお盆を運びながら、嬉しそうに目を細める。
「うちは、海外メーカーのお酒はあんまりおいてない代わりに日本で作られたお酒は種類をおおめにしてるんだ」
さいかはそう言って笑うと、店の奥にある居住スペースへ向かって、よく通る明るい声を張り上げた。
「お父ちゃーん! こいこいさんが仕入れの相談したいって!」
すると店の奥から、威厳のある体格の良い男性が現れた。腰には酒屋らしく、ポケットがたくさんついた前掛けをしている。
「おお、ほまれちゃんか!」
男性はほまれの顔を見るなり、にかっと相好を崩して近づいてきた。
「おじいさんが亡くなってこいこいさんは、どうするのか心配してたんだよ。いやぁ、よかった。ほまれちゃんが帰ってきてくれて。桐ノ木さんのところまで店を閉めてしまったら、どうなっちまうのかと思ってたよ。お父さんとお母さんも帰ってきたのか?」
「いえ……。私もまだ正式に店を継ぐかどうかは。ただ、ここにいる五郎さんがしばらくは店の管理をしてくれるということで、夏休みの間だけお店をやってみようかなって……」
「そうだったのか……。いや、なんにせよほまれちゃんが帰ってきてくれただけでも嬉しいよ。お酒ならいくらでも卸すから、なんでも言ってくれ」
さいかの父親は、五郎のほうへ向き直ると軽く頭を下げた。
「こちらこそ、菊池酒店さんとはこれからも懇意にさせていただければと思っております」
五郎が、隙のない紳士の笑みで応じる。
その後、思い出話や商店街の近況など、ひとしきり他愛もない会話に花を咲かせ、いただいた冷たいジュースのグラスを空にした頃合いだった。ひめがふと手元のメモに目を落として切り出した。
「ねえ、次は『有明精肉店』さんへ挨拶に行かなくていいの?」
その瞬間、さいかと、さいかの父の顔がサッと曇る。
「有明さんのところ、2、3週間前かな……閉店したんだよ」
父親が、重苦しい声でぽつりと言う。
「うちのお父ちゃんも町内会長として一生懸命説得したんですけど、『もう体も限界だし、客も来ないから』って……」
さいかが沈痛な面持ちで後を引き継いだ。
その言葉に、五郎は険しい表情を浮かべた。
「そうか。……間に合わなかったか」
苦いものを噛み潰したような渋い声。いつもの余裕はそこにはない。
「間に合わなかったって、どういう意味……?」
重たい空気に、ほまれが恐る恐る尋ねる。
「いや、なんとなく危うい空気は感じてたんだよ。うるさいくらいに元気だった店番のおばちゃんが、この間俺を見かけても、声をかけてこなかったからな」
五郎は、猫の姿で店先をうろついていた時のことを思い出していた。おばちゃんは通りかかる三毛猫の大五郎を見つけるたび、これでもかと声を張り上げて可愛がってくれたものだった。
一瞬、奇妙な沈黙が流れた。 五郎は「しまった」という顔を隠すように口をつぐむ。だが、商店街を誰よりも見守ってきたさいかの目は誤魔化せなかった。
「……五郎さんって、もしかして以前からこの辺りに住んでたんですか?」
さいかが、探るような視線を五郎に向ける。この街の住人の顔はすべて把握しているはずなのに、この男には見覚えがない。それなのに、街の細かな変化を、まるでずっと近くで見届けてきたかのように語るのだ。
(や、やばい……!)
猫と人間、両方の事情を知るほまれは、背中に冷や汗が流れるのを感じた。
「え、えっと! 五郎さんはこういう商店街の『再生コンサルタント』をやってて、すごく詳しいの! だから、店構えや空気感を見ただけで、経営の危うさとか分かっちゃうんだと思う……!」
ほまれはしどろもどろになりながら、必死にそれらしい言い訳を口走った。
「へぇ、コンサルタント! それはすごいですね! だったら月見商店街も、ぜひなんとかしてもらいたいくらいです!」
さいかは疑う様子もなく、ぱっと表情を明るくして身を乗り出した。
「実はお父ちゃん、月見商店街の町内会長をやってて、私も手伝ってるの」
「さいかちゃん、そんなことまでやってるの……?」
ほまれは驚きを隠せなかった。自分が学校での挫折に悩み、立ち止まっていた間、幼馴染のさいかはこの寂れゆく商店街を支えようと、一人で前を向いて歩いていたのだ。
思い返してみれば、さいかは昔からこういう子だった。 ほまれがまだ小さかった頃、しっかり者のさいかと二人で、この商店街を盛り上げるための「作戦会議」をよく開いていたものだ。その一環として、「私たちが商店街のアイドルになれば、他の街からも人を呼べるんじゃないか」なんて、子供ながらに本気で語り合ったことさえある。
(さいかちゃんは、あの頃の想いをずっと手放さずにいたんだ……)
幼馴染の頼もしい横顔が眩しく、そしてどこか誇らしかった。
「若いのに立派だね」
五郎は感心したように目を細めた。
「いえいえ……そうだ! 皆さん、この後ってお時間あります?」
ふと思い立ったように、さいかが尋ねた。ほまれが隣の五郎を伺うと、彼は短く首を縦に振って同意する。
「私たちは大丈夫だけど……」
「よかった。 実は、みんなに見てほしい場所があるの。……特にほまれには、知っておいてほしくて」
さいかの瞳に、ふと切実な光が揺れた。ひとりでこの街の現実と向き合ってきた幼馴染の真剣な眼差しに、ほまれは胸の奥がざわつくのを感じた。




