↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/45

第2章ノ3 生姜ましまし豚キムチ


こいこいの入り口からは、早くも賑やかな声が漏れ聞こえている。ほまれが暖簾から顔を出すと、そこには作業着姿の男性が4人立っていた。


「いらっしゃいませ…」


慌てて発したほまれの声をかき消すほどの声量で、後ろからひめが飛び出した。


「いらっしゃいませ! 4名様ですね、こちらのテーブル席へどうぞ!」


ひめは澱みのない動きでお冷を出し、おしぼりを手渡す。その所作は、長年実家の店で鍛え上げられたプロのそれだった。


「……すごい」


ほまれは給水機の前で立ち尽くした。自分も手伝っているつもりだったが、ひめの動きはレベルが違った。


「へぇ、お姉さん元気いいねぇ」


「今日から入った『ひめ』です! よろしくお願いしまーす。ご注文、お決まりですか?」


「じゃあ、生4つ。それと卵焼きと、あとおばんざいを適当に……」


客が言い終わらないうちに、連れの男が割って入った。


「豚キムチとかってあります? 俺、今それが無性に食べたくて……」


メニュー表にないものを注文され、ひめは少し考えたあと、不敵に微笑んで答えた。


「大丈夫ですよ、お任せください!」


ひめは手早く伝票を書き上げると、厨房へ滑り込み、五郎に視線を投げた。


「五郎さん、オーダー! 生4つ、卵焼き、おばんざい。それと……豚キムチ。もし材料があるなら、私に作らせてもらえませんか? 実家の看板メニューだったんです」


五郎は自分の出番を奪われて少しだけ不貞腐れたような顔を作ると、ふんと鼻を鳴らした。 「俺に作れない料理はないんだがな……まあ、いいだろう。ひめの腕前、見せてもらおうか。今回はお前に任せる」


「ありがとうございます! ……あ、でも、エプロンとかあります? さすがに制服を汚すのは……」


その言葉に、ほまれも自分の服に視線を落とした。今まで意識していなかったが、自分もまた小料理屋に相応しい格好ではなかった。


「これを使え」


五郎がどこからか、白く糊のきいた割烹着を2着、手渡してきた。


「あ、これ、おばあちゃんの……」


袖を通してみると、小柄な2人には少し大きく、ダボっとしていた。


「うーん。ちょっとぶかぶかだけど……、今は背に腹は代えられないか」


ひめは少し不満げに、けれど気合を入れるようにギュッと紐を結ぶと、さっそく豚肉を切り始めた。


「俺はおばんざいを作る。ほまれは客の様子を見ながら、卵焼きを頼む!」


五郎の鋭い指示が飛ぶ。


「はいっ!」


ほまれは2人のプロフェッショナルに負けないよう、深く息を吐いてフライパンを握りしめた。


ひめはまな板に向かうと、迷いのない手つきで豚小間肉150グラムを1口大に切り分けた。そこに軽く塩コショウを振り、すりおろしたショウガ小さじ1を揉み込むように、しっかりと肉へ刷り込んでいく。


「よしっ」


気合いの入った声と共に、火にかけたフライパンへごま油を引く。香ばしい油の匂いがふわりと立ち上ったところへ、下味をつけた豚肉を一気に投入した。


――ジュウウウッ!


食欲をそそる派手な音が厨房に響き渡る。ひめが手首のスナップを利かせてフライパンをリズミカルに振ると、豚肉はあっという間に色を変えていった。そこへ、あらかじめ刻んでおいたショウガ小さじ1と、豚肉と同量のキムチを迷わず投入する。ごま油とキムチの酸味が熱され、生姜の爽やかな香りと混ざり合いながら、厨房に強烈な匂いを充満させ始めた。


「次は味付け♪」


ひめは手際よく調味料を加えていく。醤油小さじ2、みりん小さじ2、そして旨味を底上げする顆粒のかつおだし小さじ2と、甘みとテリを出す砂糖大さじ2分の1。再びフライパンを煽ると、焦げた醤油とみりんの香ばしい匂いが立ち込め、豚肉とキムチが激しく踊る。最後にバサッと加えられた仕上げのニラが、鮮やかな緑を添えた。


「できた! 試食お願いします!」


大皿に盛られたそれは、見るからにスタミナのつきそうな濃い色合いをしていた。五郎とほまれは、小皿に取り分けて口に運ぶ。


「……うまいな」


五郎は頷きながらも、隣に立つほまれへ静かに視線を落とした。ほまれは1口噛みしめると、一瞬だけ眉を寄せ、どこか浮かない顔をした。だが、すぐに自分を誤魔化すような笑顔を作って答える。


「うん、美味しい! すごくご飯が進みそう」


しかし、ひめはその一瞬の曇りを見逃さなかった。ひめは菜箸を置くと、ほまれの目を真っ直ぐに見つめた。


「ほまれちゃん。……今、何か言いたいことあったでしょ? あるならちゃんと教えてほしい」

「えっ、いや、そんな……。本当に美味しいよ?」


「嘘。私の実家は居酒屋だもん、わかるよ。納得してない人の顔くらい」


ひめの真剣な眼差しが、ほまれの心の奥を射抜く。


(また、あんな風になったら――)


脳裏をよぎるのは、五月のあの日の教室。『おいしく……ないかも』。勇気を出して言った一言で、クラスの空気が凍りついたあの瞬間。指先が微かに震える。けれど、ひめは逃がしてくれない。


「ほまれちゃん、私はっきり言われないの苦手なの。だから私のためだと思って教えて」


ひめのまっすぐなまなざしに、ついにほまれは折れた。震える声で、心の中にあった違和感を、絞り出す。


「……うん。すごく美味しいけど、この店の雰囲気に合わせるなら、もう少しだけコクというか、深みがある方がいいのかなって。たとえば、お醤油を少し抑えて、隠し味にオイスターソースを足してみるとか……」


言い終えて、ほまれはまたあの時のように、冷たい拒絶の空気が流れるのではないかとギュッと目をつぶった。けれど、返ってきたのは、弾んだ納得の声だった。


「……たしかに。コク、か! うちの店はガツンとくる辛さが売りだったけど、この落ち着いた店構えなら、そっちの方が合うかも……」


「……え?」


ほまれが拍子抜けして目を開けると、ひめはニカッと眩しい笑顔を見せた。ひめは怒るどころか、顎に手を当てて新しい発見をしたかのように考え込んでいる。


「オイスターソースか…面白いな。キムチだけだと出しづらい深みみたいなものがうまく出るかもな」


五郎もまた、ほまれの意見に同調するように深く頷いた。


「流石だね、ほまれちゃん! さっそく試してみようよ。オイスターソース、どこ?」


自分の言葉が、受け入れられる。自分の意見が、誰かの力になっている。ほまれは、自分を縛りつけていた何かが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。


「お待たせしました! 特製、こく旨豚キムチです!」


ひめが運んだ皿から、立ち上る湯気が客の食欲を猛烈に刺激する。


「おおっ、これこれ! ……んんっ!?」


1口食べた客が、驚きに目を見開いた。


「なんだこれ……ただ濃いだけじゃない! こう、後を引く旨味っていうか……。おい大将、これ誰が作ったんだ?」


五郎がニヤリと笑い、ひめに目線を落とした。ひめは「あ、私……」と誇らしげに答えようとしたが、隣でまだ緊張した面持ちのほまれに気づくと、パッとその肩を引き寄せた。


「私と……あと、ほまれちゃん! 2人の共作っ!」


「そうか、2人の力作か! いやぁ、いいコンビだな!」


客たちの笑い声と「うまい!」の声が、店内の温度をさらに上げていく。肩を抱き寄せられたほまれは、ひめの体温を感じながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。自分の言葉が、誰かの料理を完成させ、誰かを笑顔にした。その事実が何よりうれしかった。


* * *


深夜。忙しかった「こいこい」の初日が、ようやく幕を閉じた。


「じゃあ、お先に失礼しまーす。おやすみなさい!」


寝支度を整え、お気に入りのパジャマに着替えたひめは2階の自室へと入る。 パタンと扉を閉めると、そこには静寂があった。昼間はダイヤモンドのように舞っていた埃も落ち着き、今はただ、窓から差し込む青白い月明かりが畳を照らしている。ひめは大きな窓のそばに立ち、誰もいない夜の街を見下ろした。


「私って……私だったんだ」


その呟きは、月明かりに溶けるほど小さなものだったけれど、確かな実感を伴って彼女の胸に落ちた。ここは、誰のものでもない、彼女自身の物語が始まる場所。 夏の夜風が、そっとカーテンを揺らした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。