第2章ノ2 姫
「さぁ、ここが私たちの働く小料理屋『こいこい』です」
五郎は「こいこい」の引き戸を勢いよく開けた。
「へぇ~、かわいい……」
天井から吊るされた色とりどりの提灯を指さして、少女が言った。
「奥の客間からは、2階にある従業員部屋の窓が見えるようになっているんです」
ほまれが提灯のさらに奥、吹き抜けのように2階へと続く窓を指さすと、少女は感心したように見上げた。
「とりあえず、荷物も多いし部屋まで案内しましょう」
五郎は少女のデコられたキャリーケースを軽々と持ち上げ、キッチン脇の階段へと向かった。階段を上りきると、共有のリビングになっていた。そこから廊下を挟んで4つの個室が並んでいる。
「すごい、2階って意外と広いんだ…」
少女は先ほどまでのクールな表情とは一変し、子供のような好奇心に満ちた顔をしていた。
「そうだね。昔は一家5人でここに住んでいたから」
ほまれは懐かしさに目を細めながらリビングを見渡した。
「今は右奥の部屋を私が、リビングの横の部屋は五郎さんが使っているので、あとの3つから好きなところを選んでいいですよ」
かつて父、母、そして祖母が使っていた部屋。少女は瞳を輝かせながら聞いた。
「外の景色が見える部屋って、ありますか?」
「えっ」
ほまれは意外そうな声を上げた。もっと「どこでもいーよ」と投げやりな返事が来ると 思っていたのだ。意外とこだわりがあるのだなと少女の横顔を盗み見る。
「どの部屋も窓はあるけど、私の部屋の向かいは、表の大通りに面しているよ」
「じゃあ、そこがいい!」
少女は元気よく答える。部屋の前まで来ると、五郎がぶっきらぼうに指示を出した。
「開けてくれ」
キャリーケースを抱えたままの五郎が、腕をプルプル振るわせながら言った。
「……なんかキャラ戻ってるよ」
ほまれがインテリモードの崩壊を指摘すると、五郎は慌てて咳払いをした。
「あ、ああ、失礼。ほまれさん、開けていただけますか?」
(無理しなきゃいいのに……)
ほまれは内心で苦笑しながら、部屋の扉を押し開けた。
「わぁ……!」
少女から感嘆の声が漏れた。大通りに面した窓から、真夏の太陽が惜しみなく降り注いでいる。埃が光を反射して、まるでダイヤモンドの粉のようにキラキラと舞っていた。 ほまれの部屋とは内装が違い、窓ガラスがはめ込まれ、吊るされたカーテンが風になびいている。
「私の……部屋」
少女は、噛み締めるように小さく呟いた。
「えぇ。あんたの部屋だ。好きに使っていいぞ…あっ、いや…ください」
五郎は、敬語が変に混ざった喋り方で言った。
「もう! まどろっこしいから普通に喋ってよ」
「わーったよ。こっちだって肩が凝って仕方ねぇんだ」
五郎は銀縁眼鏡をひょいと外し、いつもの口調に戻した。
「自分が勝手にやり始めたんじゃん!!」
ほまれが間髪入れずに突っ込みを入れる。
「うるせぇ」
2人がまた言い争いを始めていると、「あははっ!」と少女が吹き出した。それにつられてほまれも、砕けたように微笑む。そんな和やかな空気の中、五郎がふと声を低めた。
「ところで、お嬢さん。……あんた、家出じゃないんだろうな」
ほまれの心臓が跳ねる。制服姿に巨大な荷物。確かに今更だが違和感がある。
「家出じゃないです。両親には、住み込みでバイト探すって言ってきました。」
「そうか。なら一応、こちらからも親御さんに連絡させてもらうぞ」
五郎の真剣な眼差しに、少女は一瞬だけ視線を落とした。
「はい、それは大丈夫です。……たぶん、何も言われないから」
少女の瞳に、ふっと寂しげな影が差した。
「そうか! ならよかった。これで晴れて『こいこい』の新しい仲間だな。俺は五郎。先代から引き継いで、ここの料理長をやってる。よろしくな!」
五郎は、部屋に落ちかけた暗い影を払拭するように、明るい声で笑った。
「私は、桐ノ木ほまれ。おじいちゃ……先代の孫です。よろしくね」
ほまれもつられるように、元気よく右手を差し出した。
「私は、桜城ひめ(さくらぎ ひめ)。隣駅の花見横丁の居酒屋の娘です」
ひめは一瞬、自分の名前を口にするのを躊躇ったようにも見えたが、すぐに誇りを持って名乗った。
「ひめ……か。まさに別嬪さんにぴったりの名前だな!」
五郎が豪快に笑う。
「たしかに! すごくひめちゃんって感じ!」
ほまれは、深く納得したように答えた。
「……ありがと。自分じゃちょっと、名前負けしてる気もするけど……」
ひめは少し照れくさそうに笑うと、さっそく制服の袖を捲り上げた。
「とりあえず、夕方の開店まで時間もあるし、荷解きしちゃおうか。手伝うよ」
「ほんと? ありがと!」
ひめがショッキングピンクのキャリーケースを開けると、中にはカラフルな洋服やメイク道具がぎっしりと、しかし驚くほど几帳面に収納されていた。派手な見た目とは裏腹な整理整頓ぶりに、ほまれは小さく目を見張る。
「ひめちゃんって、すごくきっちりしてるんだね」
「あはは、よく言われる! 狭い居酒屋の裏で育ったからかな、手際よく片付けないとすぐ親に怒られてたし」
笑いながら服をハンガーにかけていくひめの横顔は、同い年のはずなのに、どこか大人びて見えた。その時、ひめがキャリーケースの奥から1着の服を取り出しかけて、ピタッと動きを止めた。
ひめが着るには明らかに小さなサイズのワンピース。さらには、袖の部分がわずかに破けている。彼女はハッとしたように、素早くそれを豊満な胸に抱き込むようにして隠した。
「……?」
不思議に思って首を傾げるほまれに、ひめは誤魔化すような笑みを浮かべる。
「……なんでもない。あっ、これ見てよ!お気に入りのメイク道具なんだけど新作なの」
ひめはわざとらしく話題を逸らし、きらきらしたパレットを取り出して見せた。
「えっ、かわいい」
「でしょでしょ! あとでちょっと塗ってみよ」
ほまれの胸に浮かんだ一瞬の疑念は、目の前で宝石のように輝くコスメの魅力にあっさりとかき消されてしまった。
2人で他愛のないおしゃべりをしながら荷物を片付けていると、窓から差し込む光が、いつの間にかオレンジ色の夕暮れへと変わっていく。1階からは、五郎が仕込みをする包丁の音がリズミカルに響いてきていた。
「よし、これで完了!」
空になったキャリーケースを部屋の隅に押し込み、ひめは元気よく振り返った。
「わたし、もういつでも働けるから! 何でも言って!」
「うん! じゃあ……」
ほまれが言いかけたその時、1階からガタンと引き戸が開く音が響いた。
「もうお客さん来たのかな?」
ひめが、驚いた様子で問いかける。
「おい! 2人とも、お客様だ! 降りてこい」
下から五郎の声が響いた。
「行こう!」
2人は階段を駆け下りた。




