第2章ノ1 桜に幕
障子窓から、優しい朝日が差し込んでくる。 ほまれは、久しぶりにその明るさで目を覚ました。 学校へ行けなくなって以来、カーテンを閉め切った部屋で昼過ぎまで泥のように眠る、不規則な生活が続いていた。だが今日は、驚くほどすっきりとした気分だった。 6畳1間の自室。大通り側の窓から漏れる光が、畳の上を白く切り取っている。
ふと引き戸のそばに目をやると、段ボールがいくつか積まれていた。昨日は疲れて荷解きなどままならないまま、眠りについてしまっていたのだ。 ほまれは、1番上に積まれた段ボールを開いた。すると、見慣れた字で『頑張って。 母より』と書かれた紙が置かれていた。
「……ありがとう」
ほまれは小さく呟いた。母の言葉が、空っぽだった胸の中にじんわりと満ちていく。 身支度を整えて1階へ降りると、すでに芳醇なかつおだしの香りが店内に漂っていた。厨房を覗くと、巨大な三毛猫の姿をした大五郎が、おじいちゃんの茶色いエプロンをきゅっと腰に巻き、慣れた手つきで仕込みをしていた。
「遅かったな、ほまれ。ほれ、朝飯だ」
かつてはほまれの特等席だったカウンターに、一汁三菜の定食が並べられていた。出汁が香る味噌汁、納豆、ぬか漬けのキュウリそして炊き立てのご飯。
「おいしそう……!」
「大五郎特製、朝ごはん定食だ」
大五郎は招き猫のように肉球を曲げ、自慢げに髭を揺らした。祖父が毎朝作ってくれた朝食の記憶が重なり、ほまれの鼻の奥が少しだけツンとする。納豆をかき混ぜていると、大五郎が大きな紙を持ってきた。そこには赤ペンで、力強く【アルバイト募集】と書き殴られている。
「こいつを、このあと商店街の入り口に貼りに行くぞ」
「本当に募集するんだ……。あ、住み込み可!? 3食賄い付きって、すごすぎるよ」
「最近はこれぐらいしないと人は集まらん。それに、2階の部屋は余っているだろ」
確かに、ほまれの部屋以外に空き部屋が3つほど残っている。かつて桐ノ木一家全員で住んでいた頃の賑わいの名残だ。
「まあ、大五郎と2人きりよりはいいかもね」
「どういう意味だ、それは」
「別にぃ〜。スケベな猫と2人きりって、ちょっと不安だなぁって思っただけ。ね?」
ほまれは大五郎の、もふもふした首回りの毛を突ついた。
* * *
朝食を終えると、化け猫の姿から銀縁眼鏡の紳士へと変身した五郎と共に、ほまれは商店街へと繰り出した。
「何この眼鏡……」
「こういうのつけておいたほうが、説得力が増すかと思いまして……」
「はぁ…そうですか…」
ほまれはそれ以上突っ込む気も起きないといった様子で、溜息をついた。
月見商店街のアーチ看板の下には、古びた掲示板が立っていた。日に焼けて文字の掠れたポスターが並ぶ。
「このへんでいいか」
雀荘の店員募集のポスターの横、ぽっかり空いたスペースを五郎が指さした。ほまれがポスターを貼り付けようとした時、店を出るまではなかったはずの一文が、目に飛び込んできた。
【別嬪さん《べっぴんさん》大歓迎!】
「……ちょっと、なにこれ!」
ほまれは五郎を鋭く睨みつけた。
「なにって、これはマーケティングだ。マーケティング! 『別嬪』ってのは、単に顔立ちがいいってことじゃない。その人間のいろんなものが混ざり合った姿のことを言ってんだ」
「なにそれ……よくわかんない」
「ガキにはまだ早いわな……」
「私もう子供じゃないもん!」
「十分子供だろ、胸もこんなぺちゃんこなんだし」
「五郎さんの姿で、そういうこと言わないでよ! なんかヤダ!」
2人が掲示板の前で、ギャーギャーと子供じみた言い争いをしていると。突如として、背後から声が響いた。
「……これ、マジですか?」
2人が勢いよく振り向くと、そこには1人の少女が立っていた。
「……っ」
五郎のみならず、ほまれの目も一点に釘付けになった。見慣れない制服のシャツ。そのボタンが今にも弾け飛びそうなほど、圧倒的な存在感を放つ胸元。
(でっ……)
ほまれは、喉まで出かかった「でかっ!」という言葉を必死で飲み込んだ。目の前の少女があまりに規格外で、視線をどこに置けばいいのか分からない。 少女は、艶やかなピンク髪を高い位置でツインテールに結んでいる。意志の強そうな大きな瞳は、縁取りの濃いメイクで強調され、どこか挑戦的な光を宿していた。 そして、左手にはカラフルなストーンでこれでもかとデコレーションされた、ショッキングピンクの巨大なキャリーケースが握られていた。静まり返ったシャッター街で、彼女の存在だけが、そこだけ異空間のように鮮やかに光り輝いていた。
「……後ろから見えたんですけど。この『住み込み可』って、ホントですか?」
少女は、ほまれが掲示板に貼り付けようとしていたポスターの一文を、細い指先でピタリと指した。ほまれが圧倒され、金魚のように口をパクパクさせていると、横から食い気味に五郎が身を乗り出した。
「ええ、もちろんですとも! 3食賄い付き、個室完備。さらには、とってもキュートな猫ちゃんとも一緒に暮らせる、夢のような職場です」
五郎はこれまでに見たことがないほど口角を吊り上げ、営業スマイル全開で答えた。眼鏡の奥の琥珀色の瞳が、キラリと怪しく光る。
「マジか……神じゃん」
少女はポスターから目を離さない。その視線は、時給の欄よりも「住み込み」という4文字に、縋り付くような重さで注がれていた。ショッキングピンクのキャリーケースを握りしめる彼女の指が、わずかに白く強張っているのを、五郎は見逃さなかった。 ほまれの横で、五郎が落ち着きなく身体を揺らしながら小声で囁いてくる。
「おい、ほまれ。見ろよ、あんなすんごいの、即採用に決まってるだろ!」
「ちょっと黙ってて、恥ずかしいから!」
ほまれはぴしゃりとはね除けると、仕切り直すように少女へ向き直った。
「……えっと。飲食店の経験はありますか?」
努めて真面目なトーンで問いかけると、少女は少し意外そうな顔をして頷いた。
「私の実家、隣の駅にある花見横丁で居酒屋やってて。小さい頃から店を手伝ってたから、一通りは……」
少女が最後まで言い終わらないうちに、五郎が間に割り込んできた。
「採用! 素晴らしい、文句なしの即採用です! ご実家が飲食店だなんて、即戦力!」
五郎は揉み手でもせんばかりの勢いで少女に歩み寄る。
「あ、ありがとうございます……。本当に、今日から住み込んでもいいんですか?」
「もちろん! さっそく店を案内しましょう。こちらへ!」
五郎は、グイグイと少女をエスコートし、店へ向かって歩き始めた。そのあまりの食いつきぶりに、ほまれは深くため息をつくと、ピンクのキャリーケースを引きずる少女の後を追った。




