第1章ノ3 繊月
「ほまれー! どこにいるのーっ!」
店の外から、慌てふためく両親の声が響いた。
「え……あ! お母さんたち! ど、どうしよう、なんて説得すれば……」
「まあ、それについては先代が良いものを残してくれてる」
五郎が不敵に笑ったその時、勢いよく店の扉が開いた。
「ほまれ! こんなところで何をしているのっ!」
飛び込んできた両親の前に、五郎は一歩踏み出し、洗練された動作で深々と頭を下げた。
「初めまして。私は松木五郎と申します」
驚きに固まる両親を前に、五郎は懐から一通の古びた紙を取り出した。そこには、間違いなく祖父の筆跡で『店を頼む』と記されている。
「実は私、先代とは生前より懇意にさせていただいておりまして。おじい様が亡くなってから、ようやくこの遺言に従う準備が整いました。……先代の遺志を、尊重したいと思いまして」
五郎が手渡した紙には、小料理屋【こいこい】を「若い者の自立を促す場」にしたいという願いと、この店と商店街を守ってほしいという切実な想いが綴られていた。
「しかし、そんな話、父からは一度も……」
父親は訝しげに呟いた。
五郎はちらりとほまれに視線を送る。
「私……ここで少し働いてみたい……」
ほまれは小さくつぶやいた。
「そうは言ったって……ねぇ…」
母親は、どうしたらいいのかと困った顔をした。
「百聞は一見に如かず、ですね。料理人の言葉は、その一皿に宿る。……ほまれさん、準備してもらえるかな?」
五郎は、不敵な笑みを浮かべるとほまれを見た。
ほまれは何のことか分からず戸惑ったが、五郎が「もう一度、出汁巻き卵を焼いてみな」と小声で耳打ちした。 ほまれはコクリと頷き、再びおじいちゃんの銅鍋を手にする。黄金色の出汁を合わせ、焦がさないように、空気を包み込むように丁寧に卵を巻き上げていく。 立ち上る芳醇な香りに、両親は言葉を失って厨房を見つめていた。
「これ……私が、作ったんだけど」
ほまれは震える手で、焼き立ての出汁巻き卵を両親の前に差し出した。
「これを……!?」
母親は皿を見つめたまま感極まった吐息を漏らした。黄金色の断面に箸を入れ、一口。両親は同時に目を見開いた。
「この、鼻に抜ける出汁の香りは……お父さんの味ね」
「うまい……。親父の味に、そっくりだ」
その言葉に、ほまれの肩からようやく力が抜けた。
「ほまれ……あなた、本当にここを手伝いたいの?」
母親が、真剣な眼差しで娘を見つめる。
「うん。私……やってみたい」
ここなら、自分を変えられるかもしれない。ほまれは決意を宿した瞳で、真っ直ぐに母を見返した。
「はぁ……わかったわ。とりあえず、夏休みの終わりまでやってみなさい」
母は折れる形で、仕方ないといった表情で頷いた。
「ありがとう……!」
ほまれの短い返事には、自分でも驚くほどの熱がこもっていた。
「良かったです、ほまれさん。……これから、よろしくお願いしますね」
五郎は両手でほまれの手を優しく包み込み、理知的な声で囁いた。その手の温もりと、吸い込まれそうな琥珀色の瞳に見つめられ、ほまれの胸が小さく跳ねる。
(……あ、これ、中身はあの化け猫なんだっけ……!)
ほまれは赤くなる顔を隠すように、慌てて手を引っこ抜いた。 こうして、止まっていたほまれの時間が、古びた商店街の片隅で、静かに、けれど力強く動き始めた。
* * *
真っ赤な太陽が、海を染め上げるように溶けていく。
「海って、こんなにきれいだったんだ……」
車窓から顔を出したほまれは、ぽつりと呟いた。
お父さんの運転する車に当面の荷物を詰めた段ボール箱を乗せ、ほまれは翌日再び月見商店街を訪れた。 車のトランクから最後の荷物を下ろし終えたお父さんは、心配そうな視線をほまれに向けた後、店先で出迎えた五郎に向かって深々と頭を下げる。
「それでは……娘と店をよろしくお願いします」
「ええ、お預かりします」
静寂が降りる商店街に、車のエンジン音が遠ざかっていく。 テールランプの赤い光が角を曲がって消えたとき、ほまれは生まれて初めて、自分の足でこの地に立っているような感覚になった。心細さと、高揚感が混ざり合った吐息がこぼれる。
「その荷物を持って、二階のお前の部屋をそのまま使え。明日は朝一でバイトを探すぞ」
不意に響いた野太い声に、ほまれは我に返った。 隣にいたはずの五郎は消え、そこにはいつの間にか巨大な三毛猫の姿に戻った大五郎が、器用にパイプをふかして立っていた。
「いつの間に! ……って、えっ、人を雇うの?」
ほまれはまん丸の瞳を大五郎に向けた。
「あぁ。かわいい別嬪さんを雇って、客を呼び込むぞ」
「それならもう隣にいるじゃん」
ほまれは、少しだけ誇らしげに、意気揚々と自分を指さした。 だが、大五郎はフンッと鼻で笑い、パイプの煙をくゆらせる。
「もっと、ぼん・きゅっ・ぼんのねぇちゃんだよ」
大五郎は肉球を使い、自分の体の前で大きな円を描くようにジェスチャーした。
「……もう! スケベ! さっきまでの紳士な五郎さんに戻ってよ!」
ほまれは顔を真っ赤にして、もふもふの毛で覆われた大五郎の体をぽかぽかと叩いた。叩かれた大五郎は、痛がる様子もなく「ぶにゃあ」と面倒そうに鳴き、店内へ消えていった。
ほまれはその背を見送ると、再び商店街に目をやった。 いつの間にか空は深い藍色に塗り替えられ、真上に輝く繊月の光が、シャッター街を薄っすらと照らしていた。
明日から、ここで何かが始まる。 ほまれは、静かに月を見上げた。




