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第1章ノ2 だし巻き卵

大五郎の背中を追う視界の端で、蛍のような赤い光がいくつも瞬き始めた。燃えるような夕景の中に浮かび上がるそれは、この世の光ではないような、どこかおどろおどろしくも幻想的な輝きを放っている。


大五郎が、その光の群れの前で足を止めた。そこは、ほまれにとっての聖域だった。


【こいこい】と力強い文字で彫られた木の看板。店先には、先ほど見た赤い光の正体――いくつもの赤い提灯が、まるで主人の帰りを待っていたかのように灯っていた。


おじいちゃんが亡くなってから、一度も開けられていないはずの店。なのに、引き戸はわずかに開かれ、その隙間から溢れ出す光がアスファルトを橙色に染めている。


「おじいちゃんのお店……閉まっているはずなのに……」


「ぶにゃ」


大五郎は短く鳴くと、迷うことなくその隙間から中へと滑り込んでいった。誘われるように、ほまれもまた「がらり」と音を立てて戸を開ける。


戸を開けた瞬間、鼻腔をくすぐったのは、記憶の底に眠っていた芳醇な出汁の香りだった。


店内の空気は、まるでつい先ほどまで営業していたかのように、温かな活気に満ちている。厨房へと続く仕切り暖簾の前には使い込まれたカウンター席があり、その奥にはいくつものテーブル席が整然と並んでいた。さらに視線を巡らせると、2階の居住スペースへと続く木の梯子が掛かっている。見上げれば、店内を見下ろすように配置された2階のガラス窓。子供の頃、あそこからおじいちゃんが働く姿を眺めるのが大好きだった。


――ガタンッ。


静寂の中で、厨房の方から物音がする。


「大五郎……?」


不安と期待で胸を締め付けられながら、ほまれは厨房へと繋がる暖簾を潜り抜けた。


そこには、いた。


成人男性ほどの背丈。見上げるほどに巨大化した大五郎が、二本足で立ち、まな板に向かっている。腰には、おじいちゃんが愛用していた、あの使い込まれた茶色のエプロンが誇らしげに巻き付けられていた。


「っ……!!!」


驚愕のあまり、声も出ない。 巨大な大五郎を前にして、ほまれが呆然と立ち尽くしていると。入口の引き戸が、ガラリと乾いた音を立てて開いた。


「すみません、もうやってるかい?」


厨房を仕切る暖簾からほまれが顔を出すと、店の入り口に老人が立っていた。 ほまれが返事に詰まって口をパクパクさせていると、背後の厨房から地響きのような声が響いた。


「いらっしゃいませぇ! お好きな席へどうぞ!」


大五郎だ。お客は気にする様子もなく、厨房のすぐ目の前にあるカウンター席に腰を下ろした。


「ほら、お冷だ。注文伺ってこい」


大五郎に急かされるが、ほまれは立ち尽くしたままだ。


(どうしよう…私がお客さんの相手をしないと、この化け猫がお客さんに見つかっちゃう!)


「おい、客を待たせるな」


大五郎がしびれを切らして低い声で唸る。 ほまれは腹を括った。この化け猫を厨房に押し込めておくには、自分がホールを回すしかない。震える手でコップに水を注ぎ、意を決して仕切りをくぐった。


「い、いらっしゃいませ。お冷になります。ご注文はお決まりですか?」


「それじゃあ、日替わりの定食と……あと、だし巻き卵も焼いてくれるかな」


「はい! かしこまりました」


ほまれは厨房に向かって声を張り上げた。


「定食一つ、だし巻き卵一つ入ります!」


「あいよーっ!」


威勢のいい返事が返ってくる。


「ねぇ君、新しいバイトの子?」


カウンター越しに、お客がふと顔を上げた。


「あ、えぇと…私、以前の店主の孫なんです」


「ああ、もしかしてほまれちゃんかい? おじいさんからよく自慢話を聞いていたよ」


「……え。おじいちゃんが?」


「あぁ。うちの孫はいい舌を持ってるって。俺よりもいい店主になるって……桐ノ木さんが亡くなってからずっと店が閉まっていたから、もうそのままなのかと思っていたんだけど。そんなすごい舌を持ってるお孫さんが帰ってきてくれたなら安泰だね。奥には新しい大将もいるんだろ? いやぁよかったよかった」


その言葉を聞いた瞬間、ほまれの心に、冷たい焦りが刺した。安泰だなんて、そんなわけがない。このお客さんは、おじいちゃんの味を信じてここに来ている。なのに、今厨房にいるのは正体不明の化け猫で、自分はただ突っ立っているだけの、何の役にも立たない孫娘だ。


期待に満ちたお客さんの笑顔が、今のほまれには何よりも重く、苦しかった。


「おい、ちょっと手伝ってくれ」


厨房の奥から大五郎の声が響く。ほまれは逃げるように暖簾をくぐり、裏へと戻った。 厨房の狭い空間を、大五郎の巨体が占領している。やはり、何度見ても異様な光景だ。


「おい、だし巻き卵。ほまれ、お前が作ってみろ」


「えっ……?」


予想だにしない言葉に、ほまれは面食らった。


「先代のだし巻きの作り方、お前、わかるだろ」


「……」


「その胸に抱きしめてるノート。そいつは先代のレシピノートだ。どっかに出汁巻きのレシピが載ってるから作れ」


言われて、ほまれはハッと手元を見た。無意識のうちに強く抱え込んでいたその革のノートは、不思議と体の一部のようになじんでいる。恐る恐るパラパラとページを捲ると、そこには懐かしくて繊細な筆跡が並んでいた。めくった手が一つのページで止まる。そこには『ふんわり出汁巻き卵』と書かれていた。


(おじいちゃんの、字……)


ほまれは意を決し、おじいちゃんが大切に使い込んでいた重い銅製の卵焼き器を手に取った。 ボウルに卵3つを割り入れ、菜箸で黄身を切るように手早くかき混ぜる。そこに、黄金色の自家製合わせだし大さじ1と、水大さじ2.小さじ1の薄口醤油、みりん大さじ2分の1、砂糖小さじ2、塩1つまみを加える。火にかけた銅鍋に油を引き、卵液を薄く流し込むと、じゅわっという小気味よい音が厨房に響いた。


(……焦がさないように。でも、火は弱めすぎず、空気を包み込むように……)


おじいちゃんの背中越しに見ていた鮮やかな手付きを、無意識のうちになぞっていく。菜箸を使って手前に巻き込み、また卵液を流し入れる。卵が重なり合うたびに、厨房いっぱいに優しく芳醇な香りが広がっていった。


「できた……!」


ほまれは、黄金色に輝く出汁巻き卵を皿に盛りつけた。立ち上る湯気と共に、コクのある出汁の香りが鼻腔をくすぐる。それは、幼い頃に何度も嗅いだ、大好きな祖父の匂いだった。


「よし、定食と一緒に運べ」


大五郎に促され、ほまれはお盆に小鉢を添えて暖簾をくぐった。


「お待たせいたしました。……どうぞ」


お客さんの前に、焼き魚の定食と、ほまれの作った出汁巻き卵が並ぶ。


「いただきます。じゃあ、まずはこれから……」


老人は割り箸を割ると、柔らかな卵の身を切り分け、一口で運んだ。じゅわっと溢れ出す鰹だしの旨味と、卵のまろやかな甘み。


「うん、うまい! これだよ、桐ノ木さんの出汁巻き卵だ!」


その言葉に、ほまれは心の底から安堵した。おじいちゃんのレシピを再現できた。 男性は米粒一つ残さず完食すると、満足げに息をついた。


「いやぁ、だし巻き卵もさることながら定食もおいしかったよ。」


「あ……ありがとうございます」

(あいつ…料理のうでだけはあったんだ…)


化け猫への複雑な感情を抱きつつも、ほまれは少しだけ大五郎を見直した。


「そうだ――」


男性がカウンター越しに身を乗り出した。


「新しい大将に一言挨拶したいから呼んでくれるかな?」


ほまれの心臓が跳ね上がった。


「えっ!? い、いや、それは、ちょっと……」

「先代にもお世話になってるし、どんな方なのか気になるんだよ」


ほまれは、言い訳を探してしどろもどろになる。まさか「奥にいるのは巨大な化け猫が大将です」なんて言えるはずがない。

ふと厨房へ視線を向けると、暖簾の隙間から、大五郎の巨大な斑模様のしっぽがゆらゆらと揺れている。


(どうしよう。しっぽ! しっぽが出てる!)


「いいじゃないか」


男性は腰を浮かせ、厨房に向かって声をかけた。


「大将! ちょっと挨拶したいんだけれども」


「あいよ! ありがとうございます。今、そちらへ」


厨房の奥から、重い足音が近づいてくる。


「ちょっと、待って……!」


ほまれの制止は間に合わなかった。厨房側から、暖簾がふわっと大きく揺れる。 終わった。店が、おじいちゃんの思い出が、全部壊れる――。 ほまれがぎゅっと目をつぶり、覚悟を決めたその瞬間。


「お客さん、いつもありがとうございます」


響いたのは、低く、落ち着いた大人の男の声だった。恐る恐る目を開けると、そこには不遜な笑みを口元に湛えた、長身の男が立っていた。


濡れ羽色の黒髪には大五郎を思わせる斑模様のメッシュが混じり、一房の前髪が艶やかに垂れている。黒のシャツに腰には……不釣り合いなほど使い古された、おじいちゃんの茶色のエプロンが結ばれていた。


ワイルドさと知性が同居したその姿に、ほまれは言葉を失い、目を見開く。


「いやぁ。定食も出汁巻き卵もおいしかったですよ。こんな才能のある方が後を引き継いでくれるなら先代も安心ですな」


お客さんは、何ら疑う様子もなく会話を続けている。


「それに、こんな素敵なお孫さんまで帰ってきてくれるなんて、ねぇ」


「ええ、そうなんですよ。彼女にはこれからもっしっかり働いてもらって、この店を継いでもらわないと」


「えっ……?」


突然の言葉に、ほまれは素っ頓狂な声を上げた。私が、店を、継ぐ?


「ははは、期待されてるね。じゃあ今日はこの辺で。また来るよ」


老人は上機嫌で代金をカウンターに置くと、夜の商店街へと消えていった。


「私が、この店を継ぐ……?」


ほまれは呆然と呟いた。考えもしなかったことだ。おじいちゃんが死んで、なんとなくこの店もなくなってしまう。そんな風に、どこか他人事のように諦めていた。けれど、もし自分がここに居続ければ、この【こいこい】は、おじいちゃんの生きた証は、消えずに済むのかもしれない。


「このまま先代の店を潰しちまっていいのか? お前の大切な思い出の場所なんだろ」


「……っていうか、あなた誰よ! さっきの化け猫はどこに行ったの!?」


ほまれは我に返って、目の前の男を指差した。


「俺がその化け猫だよ。『大五郎』もとい、この界隈じゃ『五郎さん』で通ってる。ほまれ、俺がこの姿の時は五郎さんと呼びな」


男は、ふんと鼻を鳴らした。


「じゃあ、あなたはさっきのでっかい化け猫でもあり、小さい大五郎でもあるってこと?」

「まあ、だいたいそんなところだ。物分かりが良くて助かる」


ほまれは五郎を凝視した。確かに、不遜な目つきやふてぶてしい雰囲気は、あの三毛猫にそっくりだ。


「ところで、ほまれ。お前もこの店で働かないか?」


五郎は一つ咳払いをして、真剣な面持ちで問いかけた。


「正直、俺一人じゃ店は回らない。まさに『猫の手も借りたい』状況だ。……まあ、俺自身が猫なわけだが。このままだと、遅かれ早かれこの店は終わる。月見商店街もろともな」


五郎は一歩踏み込み、ほまれの華奢な肩を両手で掴んだ。琥珀色の瞳が、彼女の瞳を射抜く。


「だが今ならまだ、やり直せる。お前の――じいさん譲りの味覚があれば!」


(私の、味覚……?)


灯りかけた心の火が、期待と不安に駆られ、激しく揺らめいた。料理に関われば、また誰かを不快にさせ、自分も傷つくことになる。あんな風に一言で教室を凍りつかせ、孤独の淵に立たされるのは、もう二度とごめんだ。


「……無理だよ。できない」


絞り出すような声は、自分自身に言い聞かせているようだった。


「私、学校にすら行けていないんだよ? 教室にいるだけで息が詰まって、自分の言葉一つで世界が壊れるのが怖くて。そんな私が、店になんて立てるわけない……っ!」


俯くほまれの視界が涙で滲む。あの5月の教室、冷ややかな視線。フラッシュバックする記憶を振り払うように頭を振った。すると、五郎の大きくて温かい手が、ほまれの頭を不器用に叩いた。


「学校なんてのは、ガキが集まるただの箱だ。お前がさっき包丁を握った時、その手元はおじいさんとそっくりだったぞ。……本当におじいちゃんの場所が、なくなっちまっていいのか?」


「それは……」


ほまれは顔を上げ、店を見渡した。使い込まれたカウンター、おじいちゃんが毎日磨いていたテーブル店内で美しく輝く飾り提灯。もしここが壊されて、更地になってしまったら。自分の大好きだった場所が、本当にこの世界から消えてしまったら。……それは、今の自分自身が消えてしまうよりも、ずっと恐ろしいことに思えた。


「……嫌だ。おじいちゃんの場所がなくなるのは、絶対に嫌」


学校へ戻る勇気は、まだない。けれど、ここを守るためなら。おじいちゃんの思い出の続きを紡ぐためなら、あと一歩だけ、震える足を前に出せるかもしれない。


「わかった。……やってみたい」


小さな、けれど確かな決意。五郎は満足げにニヤリと笑った。


「決まりだな。――だが、まずは『目の前の高い壁』を乗り越えないとな」


五郎は、店の入り口へと鋭い視線を移した。



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