第1章ノ1 大五郎
閉め切ったカーテンの隙間から、刺すような夏の陽光がわずかに漏れ出している。 ほまれは薄いタオルケットの中に深く潜り込み、うずくまったまま、枕元の時計をぼんやりと眺めていた。
刻々と時を刻む針は、13時27分を指している。 本来なら、午後の授業が始まっている時間だ。
あの日以来、ほまれは一度も学校へ行っていない。 クラスメイトから直接何かをされたわけでも、ひどい言葉を投げつけられたわけでもない。ただ、「おいしくない」というあの一言を境に、心がすり減り、石のように体が動かなくなってしまったのだ。
起き上がるのも、何かを考えるのもだるい。 幸いだったのは、両親が無理に「学校に行け」と怒鳴ることもなく、ほまれが自分から動き出すのを、ただ静かに待ってくれていたことだ。
けれど、今日はいつもと様子が違うようだ。朝から家の中が、がたがたと騒がしい。 不意に、扉の向こうから母親の声が響いた。
「ほまれ!」
ノックの音とほぼ同時に、ドアが開けられる。
「ほまれ、あんた。学校へは行けなくても、おじいちゃんのお墓参りくらいはついてきなさい!」
母親の言葉に、ほまれはハッとして顔を上げた。 学校のこと、自分のことで頭がいっぱいで、すっかり失念していた。今日は大好きだったおじいちゃんの一周忌だった。父も会社を休んで、車を出してくれるという。
ほまれは鉛のように重い体に力を込め、ゆっくりと身を起こした。 勉強机の上には、1枚の家族写真が置かれている。 小料理屋『こいこい』。おじいちゃんが先代から引き継ぎ、守り続けてきた店の前で、まだ幼いほまれが、太陽のような屈託のない笑顔で笑っている。その隣には、おじいちゃんと、そして大きな三毛猫が写っていた。
「……また、こうやって笑える日が来るのかな」
震える指先で写真をなぞり、ほまれは小さく呟いた。 そして何日かぶりに、クローゼットの奥から外出用の服を取り出した。窓の外では、容赦ない夏の日差しが、世界を白く焼き尽くそうとしていた。
* * *
長いトンネルを抜けると、視界の先には真っ青な海が広がっていた。東京の家を出て、車を走らせること約2時間。 白い浜辺と山々に囲まれたこの土地の、小高い丘の上に、おじいちゃんはひっそりと眠っている。
ほまれは墓前に腰を下ろし、静かに手を合わせた。
「おじいちゃん……」
ここへ来ると、いつも不思議な気持ちになる。胸を突くような懐かしさと、まるで異世界へ飛び込んでしまったかのような、ふわふわとした非現実的な感覚。 ふと視線を落とすと、供えられた花の横に、小さなノートが置かれているのに気がついた。
「これって……」
ほまれは何かを思い出すように、そっとそのノートに手を伸ばした。
「そろそろ行こうか」
不意に背後からお父さんに声をかけられ、ほまれはビクッと肩を揺らす。咄嗟にそのノートを胸元へ抱え込み、慌てて立ち上がった。
3人は緑の深い丘を下り始めた。うっそうと茂る木々の合間に、古びたお地蔵様がいくつも見え隠れしている。 そのお地蔵様が何を、あるいは誰を導くために建てられたのか――ぼんやりと考えていたほまれの視線が、一点で釘付けになった。
1体のお地蔵様の前に、1匹の三毛猫がちょこんと座っていたのだ。
「……大五郎!?」
その名前を、叫ばずにはいられなかった。 特徴的な三毛模様。額には前髪のように垂れた黒い斑点があり、頭の上には「ちょんまげ」のように数本の黒い毛がピンと立っている。ずんぐりと太ったそのユーモラスな姿は、ほまれが子供の頃に商店街のみんなで可愛がっていた、あの『大五郎』そのものだった。
「あの猫……。たしか、ほまれが小さいときにはもう結構いい年だったわよね?」
後ろでお母さんが怪訝そうに呟いた。その言葉が、ほまれの胸のざわつきを大きくする。
「ぶにゃあ」
三毛猫は一声上げると、ついて来いと言わんばかりに茂みの奥へと走り出した。
「待って!!」
ほまれも、弾かれたように駆け出す。
「ちょっと、ほまれ!」
呼び止める母の声を背中で聞きながら、ほまれは夢中で茂みへと飛び込んでいった。生い茂る木々の合間、急な下り斜面を駆け抜けていく。
「あ――っ!」
湿った落ち葉に足を取られ、ほまれはたまらずバランスを崩した。そのままズルズルと斜面を滑り落ち、遮る枝を必死に掻き分けながら、斜面の底へと吸い込まれていく。 勢いよく茂みを突き抜けた瞬間、視界を塞いでいた緑が消え、目の前がパッと開けた。
「……ここって」
尻もちをついたまま、ほまれは呆然と見上げた。 そこには、山々に囲まれた窪地に、時代から取り残されたような小さな街が息を潜めていた。
錆びついたアーチ看板には、掠れた文字で【月見商店街】と書かれている。 看板にぶら下がった電球は枯れたような色に変色し、どこまでも続くシャッターの列が、この街の命が消えかかっていることを物語っていた。
「ぶにゃーー」
大五郎がひと鳴きし、アーチの下を悠然とくぐっていく。 いつの間にか、厳しい夏の日差しは陰り、空は真っ赤に燃え始めていた。燃え盛るような夕日に照らされたほまれと1匹の猫は、吸い込まれるように、静まり返った商店街の奥へと足を踏み入れていった。




