プロローグ
どんよりとした雲が、5月の空を覆っていた。 誰かが吐息を吹きかけるだけで、今にも雨が溢れ出しそうな空を、一人の少女は教室の窓からぼんやりと眺めていた。
桐ノ木ほまれ、十五歳。 黄金色に輝く髪を、三段に膨らませたオニオンツインテールに結んでいる。
彼女が学ぶ一年A組の午後は、文化祭の出し物会議という名のお祭り騒ぎと化していた。 黒板の中央には、太いチョークの線で【文化祭・出し物:焼きそば】と書き殴られている。 数日前、クラスで絶大な影響力を持つ女子生徒の「焼きそばでいいじゃん」という鶴の一声で、議論の余地なく決定したメニューだ。
「みんな注目! 本番に向けて試作してきたから、一人ずつ食べてみて!」
教壇の上で、彼女が勝利宣言のように高らかに声を上げた。 取り巻きたちを引き連れ、家庭科室から運んできたトレイには、紙皿が山積みになっている。
「ほまれ……試食だって」
隣の席の少女が、怯えるような小声でほまれに話しかけてきた。
「うん……」
ほまれは生返事をし、神妙な面持ちで机の木目を見つめた。 ふとした拍子に、瞼の裏へ幼い頃の情景が鮮やかに蘇る。
まだ五歳の頃。祖父が営む小さな小料理屋の、使い込まれたカウンターの隅がほまれの定位置だった。
『おじいちゃん、このお漬物ちょっとしょっぱいよ。塩じゃなくて塩麹を使えば、もっとマイルドでおいしくなると思う』
『ほう! そうか、塩麹か。ほまれは本当に味がわかる子だなぁ。いつも正直に教えてくれてありがとうよ』
祖父はいつだって、孫娘の幼い指摘を柔らかな笑顔で受け止めてくれた。常連客たちも「ほまれちゃんの舌は天才だ」と、彼女の言葉を尊重してくれた。
けれど、東京へ越してきてから学んだ。 ここは、そんな風に「正しさ」を分け合える優しい世界ではないのだ。
本当のこと、正直な感想。 そういったものは、心の奥底にある重い金庫に仕舞い込んでおかなければならない。
(大丈夫。焼きそばなんて、誰が作ったって大差ないはず。ただ『おいしい』って、それだけ言えばいいんだから……)
そう必死に自分に言い聞かせ、胸の鼓動を鎮めようとした。 その時。
「ねえ、ほまれちゃん!」
教室の喧騒を切り裂くような鋭い声が、ほまれを指名した。 教壇にいた彼女が、獲物を見つけたような笑みを浮かべてこちらを見ている。
「ほまれちゃんってさ、自己紹介で実家が小料理屋だって言っていたよね? プロの家系なら、味見してくれるでしょ?」
クラス中の視線が、一斉にほまれへと突き刺さる。 彼女は、湯気の上がる紙皿と割り箸を手に、ほまれの席まで歩み寄ってきた。
「はい! 一口食べて、感想聞かせてよ」
差し出された顔には、逆らうことを許さない支配的な笑みが張り付いている。 ほまれは震える手で箸を持った。机の上に置かれた焼きそばからは、ソースが焦げ付いた鼻を突く匂いが漂っている。
「ほまれちゃん……」
隣の席の少女が、か細く息を漏らした。それは「波風を立てるな」という、彼女なりの切実な忠告だった。
ほまれは意を決し、麺を箸で持ち上げた。 強すぎる火力で熱されたのか、麺の端は硬く変質している。乾燥して粉っぽくなったタレが、無造作に振りかけられた青のりと共に、黒ずんだ塊となって付着していた。
「いただきます……」
ほまれは、それを口に運んだ。 咀嚼するたびに、暴力的なまでの醤油の塩味が舌を刺す。粘り気のあるソースが口内の水分を奪い、嫌な後味が喉に張り付いた。
「どう? おいしいでしょ?」
答えは決まっている。 この場をやり過ごすための、魔法の言葉を口にするだけだ。 ほまれは、喉を通ろうとしない塊を無理やり飲み込んだ。
(おじいちゃん……ごめん……っ)
心の中で謝罪を呟き、顔を上げた。 けれど、嘘を吐こうとした唇は、ほまれの意思に反して、彼女の「魂」が感じたままの言葉を紡いでしまった。
「おいしく……ないです」
その瞬間、こらえていた雨が、激しく窓を打ち鳴らした。 降り出した雨音だけが、凍りついた教室の中にこだました。




