第12章ノ1 取材
朝の陽ざしが、ブリキのじょうろに溜められた水に反射する。起きたばかりの眠い目をこすりながら、小町は「こいこい」の周りに置かれたプランターに水をやり始めた。
「シシトウさん、おはよう」
冷たい水がシシトウの葉に注がれる。葉から零れ落ちる朝露を、小町は愛おしそうに眺めた。
「枝豆さんはもう収穫できるかな?」
横から、小鶴が枝豆のプランターを覗き込む。よく見ると、丸い葉の裏に小さな影が張り付いていた。
「あなた、だあれ?」
小鶴が人差し指を差し出すと、それは指先を伝って、ゆっくりと這い上がってくる。
「テントウムシさんじゃない?」
小町は、その小さな赤い真ん丸の羽を優しくなでた。指先に伝わるかすかな感触に、小町は目を細める。
すると、背後からふわりと、嗅ぎなれない甘い香りが漂ってきた。自然の草木とは違う、人工的な甘い香り。
足音すら立てず背後に立っていた気配に、小町が慌てて振り返る。そこにはメモ帳を片手に、黒髪を低い位置でツインテールに結んだ、分厚い眼鏡の女性が立っていた。
「わっ、びっくりだ!」
小町が驚いて上げた手の衝撃で、小鶴の指先に止まっていたテントウムシは、太陽の方へと高く飛んで行ってしまった。
「あ……」
呆然と空を見送る小鶴。一方で、眼鏡の女性は双子の反応にたじろぎ、視線を泳がせている。
「あ、えっと……ごめんなさい。あまりにも、その、かわいらしい光景だったから、つい……」
ボソボソと小さな声で呟く彼女の手元では、メモ帳にびっしりと何かが書き込まれている。小鶴は、テントウムシを逃がした犯人を品定めするように、じっとその女性を見つめた。
「あなた、怪しい人?」
「……っ! い、いえ、私は違う! さよなら!」
女性が慌てて立ち去った足元には、小さな白い紙が落ちていた。
「あ、何か落としたよ」
小町がひらりとそれを拾い上げる。指先に触れたのは、角の立った、手触りのいい名刺だ。
そこに記された文字を、小町は流れるように読み上げる。
「『青短新聞社・学芸部、藤井 澪』……」
まだ早朝とはいえ、真夏の日差しはすでに厳しく、厨房は例のごとく灼熱地獄となっていた。ほまれは、ひめが自分のために新調してくれた、夏用に袖が短くなった制服の紐をキュッと結び、皆の朝食の準備に取り掛かっていた。
そこへ、裏口から収穫した枝豆を抱えた小町と小鶴が、どこか落ち着かない様子で入ってくる。
「ほまれちゃん……困った。これ、怪しい人の落とし物」
小町が、先ほど眼鏡の女性が落としていった名刺をほまれに手渡した。
「青短新聞……?」
ほまれは、その聞き慣れない名前に首をかしげる。
「眼鏡の女の人がこっちをジーっと見てたの! そうしたらびっくりして、テントウムシさんもどっかいっちゃって」
小鶴も必死に身振り手振りを交え、外で起きた出来事をほまれに伝えようとする。
「なになに、朝から不審者?」
店内を片付けていたひめが、隣にいたしずくを連れて、騒ぎを聞きつけやってきた。ひめは、ほまれの手から無造作に紙切れをひったくる。
「『青短新聞』って、この辺りで昔からある地方新聞じゃん。地域のイベントとか、商店街の特集とかをよくやってるやつ」
ひめの言葉に、ほまれはハッとした。言われてみれば、幼い頃の記憶にうっすらと見覚えがある。分厚い老眼鏡をかけたおじいちゃんが、毎朝縁側で熱心にページをめくっていた、あの新聞だ。
「でも、なんで新聞記者さんが月見商店街にいたんだろう……」
ほまれは、顎に手を当て不思議そうに考える。
「なんでって……そりゃ、この街の取材に来たんでしょ」
ひめのあっけらかんとした態度に、場が凍り付く。
「し……取材……?」
ほまれの喉がヒクリと鳴る。隣にいたしずくも、紫の目を見開き、名刺を凝視した。
「まさか……こんな寂れた商店街に、取材なんて来ないよー」
ほまれは乾いた笑いを浮かべながら、現実離れしたひめの話に動揺を隠せない。しかし、ひめはさも当然と言わんばかりに答えた。
「そう? 私の店にも一回、青短新聞の取材来たわよ。『今が熱い商店街! 花見横丁に密着! 再建を果たしたなんたらかんたらー』って、でかでかと写真入りで載ってたし」
ひめは、名刺を指でぴらぴらと躍らせる。
「まぁでも、私の店目当てっていうより、横丁アイドルの取材がメインって感じだったけどね」
「それでもすごいよ! もし、本当にこの商店街も新聞に載るとしたら、一気にお客さん増えるかもしれないし!」
ほまれは、興奮気味にひめの肩をたたいた。ほまれがこの街に帰ってきてからというもの、『こいこい』には少しずつかつての活気が戻ってきている。けれど、一歩外へ出れば、月見商店街の大部分は未だに重いシャッターを下ろしたままだ。もし、新聞という大きな舞台でこの商店街の魅力が取り上げられれば、かつての賑わいを取り戻すための、強烈な起爆剤になるかもしれない。
「小町……有名になっちゃう?」
「小鶴たち、街のアイドルになっちゃうかな……?」
双子は、たちまち頭の中で想像を膨らませた。 可愛いエプロン風の衣装を身にまとった自分たちが、手をつなぎながら群衆に挨拶をする。バレッタのように結ばれた大きなリボンが、さらさらの後ろ髪とともに揺れる。
『きゃー!! 小町ちゃんこっち向いてー!』
『小鶴ちゃんサインくださーい!』
双子の脳内では、空想のファンたちの声援が心地よくこだまする。
「おーい、お二人さーん。戻ってきてくださーい」
ひめの冷静な突っ込みに、双子はハッと我に返り、想像の世界から引き戻された。
「わ……私は、あんまり新聞載りたくないかも……」
しずくは、淡い水色の髪を指で梳きながら、顔を隠すように俯いた。
「なんで? しずくちゃん可愛いから、商店街の看板娘になれるよ!」
ほまれの素直な称賛に、しずくは肌の白さが際立つ顔を林檎のように赤らめた。
「は……恥ずかしいよ……」
ほまれは、今にも「可愛い!」という言葉が口から溢れそうになったが、これ以上しずくを困らせては可哀想だと思い直し、ぐっとその言葉を飲み込んだ。
そこへ、珍しくTシャツにスラックスという普段着姿の五郎が、階段をきしませながら降りてきた。
「俺は、取材なんて受けるつもりはないがな」
露骨な仏頂面を浮かべた五郎は、荒々しい動作でひめの手から名刺を奪い取った。しかし、そこに印字された『藤井 澪』という名前に視線を落とした瞬間、五郎の眉間がピクリと険しく跳ねた。
「どうして? 新聞なんて、この商店街が生き返る千載一遇のチャンスだよ!」
ほまれは必死に食い下がる。高く掲げられた五郎の手から名刺を取り戻そうと、何度もジャンプを繰り返すが、その指先は虚しく空を切るばかりだ。
「どうしても、こうしてもない。新聞なんてのは、面白おかしく書き立てるもんだ。それで旬が過ぎれば、ポイ捨てするみたいに俺たちのことなんかお構いなしで、次へ行っちまう」
五郎は、吐き捨てるように言った。その声には、単なる頑固さだけではない、どこか冷ややかな現実を知る者の響きがあった。
「いいか、ほまれ。俺は確かにこの商店街を復活させたい。だが、ああいったものの力は借りたくないんだ。……わかってくれ」
今までに見たこともない五郎の真剣な表情に、ほまれは伸ばした手を止めたまま、何も言い返せなかった。
「少し出かけてくる」
五郎は、名刺をポケットに無造作に突っ込むと、そのまま裏口から外へと出ていってしまった。
「なにあれ…」
ひめは腰に手を当て、あきれ果てた様子で五郎が消えた裏口を睨みつけた。
ほまれは、五郎が去った扉を不安そうに見つめた。換気扇の回る音だけが、やけに大きく厨房に響く。五郎はどうして頑なに記事になることを嫌がるのだろうか。商店街を復活させるためには、メディアに取り上げられるのはまたとないチャンスだ。
(それに……)
名刺を見た瞬間の、五郎のあの顔。単に「取材が嫌い」というだけではない、何か焦りのようなものを感じた。脳裏に、先ほどの五郎の険しい表情が焼き付いて離れない。ほまれは、意を決して顔を上げた。
「ついていこう」
ほまれが、決然とした声を上げる。
「ほま、あんた何かについていくの好きだね。この間もあのスケベ猫についていったし……」
ひめが呆れたように肩をすくめるが、ほまれの瞳は真剣そのものだった。
「だって、気になるんだもん……」
ほまれは、先ほどの五郎の険しさと苦しさの混じった顔を思い出した。
「はいはい……」
ひめは深く溜息をつくと、観念したように自分のエプロンの紐を解いた。ほまれがこうなった時の頑固さは、この間のしずくの一件で痛いほどわかっていた。
「ほま一人にして面倒ごとになっても嫌だから、みんなで行くよ!」
ひめの号令で、しずくと双子も慌ててエプロンを脱いだ。準備の整った5人は五郎に気づかれないよう、抜き足差し足で裏口のドアを開け、真夏の商店街へと踏み出した。




