第11章ノ4 食材と料理人
その後、本格的に昼の営業を開けた「こいこい」。表に出された黒板の『本日の一品』の欄には、白いチョークで「無限ピーマン」と「ピーマンの豚肉詰め」の二つの名が並んで書かれた。
「いらっしゃいませ!」
ひめの威勢のいい声が響き、常連客たちが次々と暖簾をくぐってくる。
源蔵のお墨付きをもらった『肉詰めピーマン』が飛ぶように売れるのはもちろんのことだったが、意外なことに、もう一つのメニューである『無限ピーマン』も大好評だった。
「ピーマンってツナマヨと合うんだなぁ」
「俺、ピーマンあんまり好きじゃなかったんだけど、これは食えるぞ」
常連の家族連れや若い客からは、そんな喜びの声が次々と上がった。源蔵が求めた「ピーマン好きのための至高の一皿」と、ほまれが自分と同じように「ピーマンが苦手な人のために考えた一皿」。そのどちらもが、お客さんの笑顔を作っていた。
「どっちのピーマン料理も売れ行き好調なんて、さすが『こいこい』の料理人ね」
ひめが、にやにやとした顔でからかうように言った。
「一つの食材で、あんなにもいろんな味付けにできるなんてすごいです」
しずくも、尊敬のまなざしでほまれを見つめる。そこへ、双子がぴょんぴょんとウサギのように跳ねながらやってきた。
「小町も、うれしい! ありがとうほまれちゃん!」
「私たちのピーマンおいしくしてくれて!」
双子は、ありったけの笑顔をほまれに向けた。
「こ……こちらこそ……ありがとう」
ほまれは照れ隠しのように少し視線をそらしながらも、胸の奥にじんわりと温かいものが広がるのを感じていた。 ふと、厨房の隅に置かれた段ボール箱に目をやる。あんなにはち切れんばかりに詰まっていた緑の山も、すっかり底が見え始めていた。
(小町ちゃんと小鶴ちゃん、それに源蔵さんが、土まみれになって一生懸命育てた大事なピーマン……)
食材の向こう側には、それを作る人がいる。そして自分は今、その人たちの想いと苦労が詰まった大切な命を預かっている。 生産者が繋いでくれたバトンを受け取り、一番おいしい形でお客さんに届ける――それこそが、料理人が果たすべき本当の責任なのかもしれない。
その確かな重みは決して嫌なものではなく、むしろ「こいこい」の厨房に立つ者としての心地よい誇りとなって、ほまれの背筋をほんの少しだけピンと伸ばした。
* * *
その夜。ほまれは一人、自室の窓枠に肘をつき、静かな夜空をぼんやりと眺めていた。
時折、自分の指先を鼻元に持っていく。石鹸で何度も洗ったはずなのに、指先にはまだほんのりと、あのピーマンの青臭い匂いが染み付いている気がした。けれど、不思議と嫌な気分ではない。昼間のお客さんたちの笑顔や、源蔵の満足そうな顔を思い出すと、その不格好な匂いすら、今日の勲章のように思えた。
ほまれがふっと口元を緩めた、その時だった。
――サッ。
視界の端、真向かいの家の屋根を、小さな影が素早くかすめた。
「ハチワレ猫?」
野良猫だろうか。ほまれは目を凝らし、食い入るように暗い屋根を見つめた。すると、その最初の影を追うようにして、さらにもう一つの影が瓦を蹴り、しなやかに跳躍した。
「……!」
ほまれは思わず窓から大きく身を乗り出した。夜風に目を細めながら、影が走り去っていった方向を凝視する。隣の屋根、さらにその奥の屋根へと、音もなく滑らかに移動していく二つのシルエット。見知らぬ一匹の猫が先を急ぐように走り、後を追っているのは間違いなくあの見慣れたフォルムだった。
「大五郎……?」
ほまれの呟きは、夜の空気に吸い込まれた。




