第10章ノ3 あったかい
夏の厳しい日差しがようやく陰り、街を焼くような灼熱の空気も落ち着きを取り戻し始めた頃。 ひめは、店頭に出されたボード看板に【新メニュー:ウズラの味玉】と、チョークで大きく書き加えた。
そこへ、折よく現れた常連の山本さんが、ふと店の前で足を止めた。
「お! ひめちゃん! 新メニュー?」
「山本さん! 新メニューもあるし、新しいバイトの子も入ったのでぜひ寄って行ってください!」
ひめの商売気のない客引きに、山本さんは苦笑いしながら頷いた。
「そこまで言われたら……寄っていこうかな」
「いらっしゃいませー!」
元気な声が店内に響き渡った。
「ご来店、ありがとうございます……。お冷をどうぞ」
しずくは、震える手を抑えるように水の載ったお盆を運ぶ。そのすぐ隣では、ひめがいつでも助けられるようにそっと片手を添えてスタンバイしていた。
「ありがとう。……お、君が噂の新人さんかい?」
山本さんは、しずくのたどたどしい動作を急かすこともなく、柔らかな笑顔で話しかけた。
「は……はい。えっと……」
その瞬間、しずくの頭の中は「水を置く」という動作と「会話を返す」という二つのタスクで、パンク寸前になってしまう。思考が止まると同時に、テーブルに置かれるはずのコップが、宙に浮いたままぴたっと止まった。
「しずく、まずは水を置いてからでいいよ」
隣でひめが、耳元でささやくように優しく促す。 しずくは「ふぅ」と小さく息を吐くと、全神経を集中させてコップをテーブルの上に置いた。それから、ハッと思い出したように顔を上げる。
「ええと……しんじ……新人です。よろしくお願いします」
淡い水色の髪をふわりと揺らして、丁寧にお辞儀をした。
「ははは。ありがとう。じゃあ、さっそく外に書いてあったウズラの味玉と、ビール」
山本さんの注文に、しずくは「はいっ」と短く応えて厨房へ急いだ。
「ビールは私が入れるから、しずくは味玉をお願い!」
ひめは慣れた手つきで、ビールサーバーを操り、7対3のジョッキビールを注ぐ。しずくは、小鉢に味玉を盛り付けると、両手で慎重にそれを運んだ。
「おっ、これか」
テーブルに置かれた、黒糖色のつややかな味玉と黄金色のビールを前に、山本さんは思わず声を漏らした。箸で一粒つまみ、口へ運ぶ。
「……うん、うまい! 味が染みてて、ビールに最高によく合うよ。これはほまれちゃんが作ったのかい?」
山本さんが厨房に向かって感心したように声をかけると、パタパタと足音を響かせてほまれが駆け寄ってきた。
「はい! 山本さん、ありがとうございます! ……でも、私一人で作ったんじゃないんです」
ほまれは、すぐそばで緊張して立っているしずくの肩を、誇らしげにポンと叩いた。
「このしずくちゃんが、一つひとつ丁寧に殻をむいてくれたんです!」
その言葉に、しずくは驚いた表情でほまれを見返した。 自分はただ、言われた通りに手を動かしただけ。ほまれは、そんな自分の作業を認めてくれたのだ。
「これ、手作業でやってたのか! すごいね、しずくちゃん」
山本さんは感心したように頷き、しずくに向かって満足そうにグラスを掲げた。
「……あ、ありがとうございます」
しずくは、小さく頭を下げた。 店内に、ビールの心地よい喉越しと、常連客の笑い声が溶けていく。
山本さんの「おかわり」の声に、厨房から元気な返事が重なる。
夕闇が商店街を包み込むにつれて、店内にはいつものように常連客が数人、ぽつりぽつりと暖簾をくぐってきた。 誰もが新メニューの「ウズラの味玉」に興味を示し、一粒口に運ぶたびに、その美味しさに顔をほころばせる。
しずくは、まだ少しぎこちない足取りながらも、ひめに見守られながらお冷やを運び、空いた皿を下げた。
その後も、店内の時計は満ち足りた時間を刻んでいった。
プシュッ。 栓抜きで勢いよく開けられた王冠が、畳の上にはじけ飛ぶ。
「乾杯……」
一足早く眠りについた双子を起こさないよう、ほまれ、ひめ、しずくの三人は、小さな声とともに「こどもドリンコ」の瓶を打ち付けた。 昼間のサウナのような気温が嘘のように、開け放たれた窓からは、夜露に冷やされた空気が青白い月光とともにほまれの自室へと流れ込んできた。
窓枠に肘をついて見上げると雲ひとつない満天の星空が広がっていた。遠くで鳴き始めた虫の声だけが、静まり返った月見商店街に響いている。三人は誰からともなく夜空を見上げ、仕事終わりの心地よい疲労感に身を委ねていた。
「ぷはぁ……!」
ひめが、行儀悪く胡坐をかきながら子供のドリンコを一気に流し込んだ。
「染みわたるぅ。やっぱり、仕事の後のドリンコはおいしいね」
ほまれは、ちびちびとドリンコを飲みながら呟いた。その横で、背筋を伸ばして正座したままのしずくも、ドリンコを喉に流し込む。
「……うん。とっても、おいしくて…あったかいです」
「あったかい!? すんごい冷えてるけど。」
ひめは、空になった瓶を眺めながら不思議そうに言った。
「ううん。あったかい、とっても」
まだ中身の残ったドリンコの瓶を、宝物のように胸元でぎゅっと抱きしめながらしずくは笑った。
ひめは、空になった瓶を畳に置くと、そのまま窓の外を仰いだ。
「ふーん……。じゃあ、あったかいのかもね…。」
独り言のようにこぼれたひめの言葉は、夜風にさらわれて空へと溶けていった。




