第9章ノ4 柳に乙女
店内では、小町と小鶴がバスタオルを広げて待ち構えていた。ひめは自分も濡れているのを構わずタオルを受け取ると、真っ先におどおどと立ち尽くすしずくの髪を包み込み、丁寧に水気を拭った。
「今日はこんな雨だ。客も来ないだろうから、みんなでうまいもんでも食おう…とりあえず。風呂でも入ってこい。」
五郎は、いつになく柔らかな顔で微笑んだ。
しばらくして、風呂から上がりすっかり髪を乾かしたしずくが、一階の厨房から漂う芳醇な香りに導かれるように降りてきた。
「あ! しずくちゃん、その服すっごくかわいい!」
ほまれがパッと顔を輝かせて声を上げる。 しずくは、真っ白な大きめのTシャツを身にまとっていた。中央には、かわいらしい猫のイラストが描かれている。透けるような彼女の肌に、清潔な白がよく映え、まるで迷い込んだ妖精のような、どこか浮世離れした美しさを醸し出していた。
「ひめさんが……貸してくれたの……。」
しずくは照れくさそうに、Tシャツの袖を指先でつまんだ。
「……似合うと思ったから貸しただけよ……。」
ひめはプイと横を向いたが、その耳たぶは少しだけ赤くなっている。
厨房では五郎とほまれが鍋を火にかけていた。立ち上る湯気とともに、生姜と出汁が混ざり合った、幸せな香りが店内に満ちていく。
「よし、完成! ほまれ特製、卵雑炊と鯛のあら汁!」
ほまれが誇らしげに掲げた鍋の中には、黄金色の出汁をたっぷり吸い、ふわふわの卵を纏った雑炊が。その隣の小鍋では、鯛の身が贅沢に踊るあら汁が、食欲をそそる湯気を立てていた。
「さあ、私がよそうから、みんな席について!」
ひめが手際よく料理を盛り付けていく。
「ひめさん……私も、運ぶの、手伝ってもいいかな……」
しずくが、折れてしまいそうな細い手を、おそるおそる差し出した。 ひめはその提案に一瞬戸惑ったが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「いいよ。その代わり、ゆっくり、慎重にね」
ひめはしずくの手にそっとお盆を乗せ、その上に雑炊の碗を置いた。 皆が見守る中、しずくは一歩一歩、確かめるようにテーブルへと向かう。ふらふらと頼りない足取りながら、その瞳は手元の一点に集中していた。
「おまたせ、しました……」
先に座っていた双子と五郎の前に、無事に碗を置く。その瞬間、緊張の糸が解けたのか、しずくは「ふう……」と大きく息を吐いた。
「わあ、おいしそう!」
「しずくちゃん、ありがとう」
小町と小鶴が、花が咲くような笑顔をしずくに向ける。 その様子を満足げに見届けたひめが、残りの料理を一度に抱えてやってきた。その鮮やかな手際に、手持ち無沙汰になったほまれは、「……流石はひめだね」と、感心したように呟く。
「いただきます」
声を合わせ、それぞれが匙を動かす。しずくはおそるおそる、黄金色の雑炊を口に運んだ。 舌の上でふわふわの卵がほどけ、五臓六腑に染み渡るような優しい出汁の味が広がる。冷え切っていた体の芯に、ぽっと小さな灯がともったような感覚。
「……すごく…あったかい」
しずくの細い肩が、ふわりと緩む。
「でしょ!この雑炊と、あら汁のセット、私が風邪ひいたときにおじいちゃんが作ってくれた黄金セットなんだよね。」
ほまれは、自慢げに胸を張った。
「しずくがあったまって…小町、うれしい」
「しずくの顔色が良くなった!」
小町と小鶴が、顔を寄せ合うようにして交互に言葉をかける。しずくは、その温かな言葉のひとつひとつを、こぼさないように心の中でそっと咀嚼した。
「ありがとう。」
しずくの口からこぼれた小さな呟きに、ひめとほまれは顔を見合わせ、微笑みあった。
***
夏の嵐は、気まぐれにどこかへ消え去っていた。 しずくは、古いミシンが静かに佇む自室の窓辺から、夜空を見上げていた。
雨上がりの澄んだ空気の中、輝く月の光がしずくの淡い水色の髪に溶け込み、青白い肌を透き通るように照らし出している。
夜風が窓から忍び込み、さらりと彼女の髪をなでた。
「お母さん……」
ぽつりと、夜の静寂に独り言がこぼれる。
かつて東北の地で、家族と囲んだ食卓。もう二度と戻れない場所。けれど、今夜食べた雑炊の温かさは、確かにあの頃の記憶を呼び覚ましていた。
バラバラになってしまった家族も、自分と同じようにこの美しい月を見ているのだろうか。 しずくは、いつまでも夜空の向こうに家族の面影を探していた。




