第9章ノ3 雨に雷
三人が店の外へ飛び出すと、空はどんよりとした重い雲に塗りつぶされていた。
「なんか……いかにもな雲だね」
さいかが不安そうに天を仰ぐ。
「とにかく、さいかが教えてくれた場所を片っ端から当たってみよう!」
ほまれの掛け声とともに、三人は商店街を駆け出した。しずくと最初に出会った堤防、以前雨風をしのいでいたという森の廃墟、そして幽霊の目撃証言があった路地裏や公園。
歩いて行ける範囲は一通り回った。けれど、野良猫の姿は見かけるものの、肝心のしずくの姿はどこにもなかった。
気が付けば、もうお昼を過ぎている。
「ごめん、私そろそろ配達に戻らないといけないから。また何かわかったら連絡するね」
さいかは申し訳なさそうに、配送用の自転車を漕いで雑踏へ消えていった。
その直後、限界まで水分を湛えていた空がついに決壊した。 轟音とともに大粒の雨が、アスファルトを叩きつける。
「雨だ……」
「濡れちゃう! 一回店に戻ろう、ひめ!」
ほまれに促され、二人は「こいこい」へと逃げ帰った。
店内では、小町と小鶴が心配そうな顔で二人を迎え入れた。
「心配した……」
「……早く拭いて」
二人が差し出したタオルを受け取ったが、ひめの視線は店内のテレビに釘付けになっていた。
『……現在、この地域一帯にゲリラ豪雨警報が発令されています。記録的な短時間大雨となる見込みで、低い土地の浸水、河川の増水に最大級の警戒を……』
――ピカッ!
突如、青白い閃光が窓の外を劈き、直後に地響きのような雷鳴が轟いた。
ゴロロロロォッ!!
「小町……怖いっ」
「小鶴も雷嫌い!」
双子が悲鳴を上げて身を寄せ合う。豪雨と混ざり合って、外の世界は一寸先も見えない漆黒に包まれていた。
「……やっぱり、私、行ってくる」
誰もが外の猛威に言葉を失う中、張り詰めた空気を破ったのはひめだった。彼女はまだ湿ったままの体を引きずり、傘を手に取る。
「ひめ! いくらなんでも今出ていくのは危なすぎるよ!」
ほまれが慌ててその肩を掴んで制止する。小町と小鶴も顔を見合わせた。
「ああいう子は……」
ひめの声は、激しく狂う風音のように悲痛だった。
「こういう時でも外を歩き続けたり、海へ行っちゃったりするの。……危ないとか、そんな判断もできないまま、ただ彷徨うのよ。あの子が……みやびがそうだったみたいに!」
「ひめ……」
「今行かなきゃ。わかんないけど、探さなきゃ!」
ひめはほまれの手を振り切り、力任せに店の扉を押し開けた。 ほまれが慌てて後を追おうとした、その時――。
開いた扉の向こう、叩きつけるような雨の中に、彼女は立っていた。
「……ひめ、さん…」
透けるほど青白い顔。淡い水色の髪は顔に張り付き、着ていた服は水を吸って重く垂れ下がっている。ずぶ濡れのまま、震える足でそこに立っていたのは、探し続けていたしずくだった。
「……」
しずくは何も言わず、ただ幽霊のように立ち尽くしている。
「しずくちゃっ」
ほまれが、反射的に店から飛び出そうとしたとき。
「ほまれ」
背後から低く静かな声が響く。ハッとして五郎の方を振り向くと、彼はただゆっくりと首を横に振った。
ひめは手にしていた傘を開くことも忘れ、叩きつけるような雨の中へ躍り出た。容赦のない雨粒が、一瞬にしてひめの体をずぶ濡れにしていく。だが、彼女はそんなことなど気にも留めず、しずくの目の前まで歩み寄った。
激しい雨音が二人の間を埋める中、ひめは勢いよく頭を下げた。
「昨日は……意地悪なことばかり言って、ごめんなさい」
「え……あ……」
しずくはどうしてよいか分からず、ただ困惑した表情でひめを見つめる。
「勝手に自分の事情をあなたに重ねて、イライラしてた。本当にごめん…だけど。」
ひめは顔を上げると、しずくへと一歩、距離を詰めた。
「……しずくはどうして戻ってきたの?」
どうして。なぜ自分はここに戻ってきたのだろう。 冷たい雨の中を当てもなく歩きながら、頭に浮かぶのは『こいこい』の温かい匂いと、みんなの声ばかりだった。野良猫が一番安心できる場所を探すように、気がつけばしずくの足はここへ向いていたのだ。
「……どうして…」
しずくは、雨に濡れ、かじかんだ自分の両手を見つめた。
『ごめんな、しずく……。俺は俺の人生を生きたいんだ。お前もお前の人生を歩んでくれ』
ふいに、しずくの脳裏にあの日の声がこだまする。 突き放すような、どこか諦めたような、兄の最後の言葉。
母もいない、父もいない。唯一の肉親である兄にすら見放された自分。
人生なんて、わからない。 一人で生きていくための正解も、この雨を避けることも、自分にはできない。 ずっとそう思って、ただ流されるように、猫たちの体温だけを頼りにしてきた。
けれど。どうしても自分自身の言葉が出ない。どうしたいのか、口にできない。なんとかしなければいけないのに、それはわかっているのに。
「…あの…。」
しずくは自分の中に湧き出ている感情を一生懸命言葉にしようとした。だが、声が出ない。 胸の奥がぎゅっと痛くて、熱いのに。それをどうやって言葉という形に変換すればいいのか、その方法がわからない。
「しずく…。」
ひめは、しずくにまた一歩近づいた。
「お願いしずく。どうしてほしいの?」
しずくはゆっくりと顔を上げた。 雨水で滲む視界の先、自分をまっすぐに見つめるひめの瞳だけが、漆黒の世界で唯一の光に見えた。言わなければ。
「わたし……」
しずくは、ひめに一歩近づいた。震える唇から、消え入りそうな声が漏れる。
「わたし、わからないんです。お兄ちゃんが言ったみたいに……自分の人生、どうすればいいか、わからないです」
しずくの頬を雨が伝う。
「でも。……ここにいたいです」
「わたし……ここにいたい。ひめさんのそばにいたい。ほまれちゃんに……おいしいもの、教えてもらいたい。小町ちゃんと小鶴ちゃんと手をつないで、あったかいおうちに帰りたい。あったかいところにいたい」
彼女が、心の奥底にある記憶だけを頼りに手繰り寄せた、我が儘だった。
「助けて! ひめさん!」
しずくの叫びが、激しい雨音を突き破り、真っ直ぐにひめの胸へと届く。
「わかった。」
ひめは深く頷いた。 手にしていた傘を開き、しずくの頭上へとかざす。
叩きつけるような雨がしずくの周りから消える。
「ひめ! しずくちゃん!」
店の中から祈るように見守っていたほまれだが、居ても立っても居られなくなり、雨の中へと飛び出した。 バサッと大きな傘を開き、ひめとしずくに駆け寄る。ほまれの傘がひめを覆い、ひめの傘がしずくを守る。
「二人とも、店に戻ろう。」
ほまれの優しい声に、しずくは何度も、何度も小さく頷いた。




