第9章ノ2 破けたワンピース
店内の客席には、昇り始めた朝の光がところどころ差し込み始めていた。 ほまれは救急箱を広げ、ひめの指先に慎重に消毒液を差す。
「……痛い?」
「ううん。平気」
ひめは視線を伏せたまま、短く答えた。白い包帯が、ほまれの手によって丁寧に、指先から手のひらへと巻かれていく。
「あのワンピース。あれ、実は妹が破いたの……」
「え?」
包帯を巻くほまれの手が、一瞬止まる。 ひめは、どこか遠くを見つめながら、澱を吐き出すように話し始めた。
「私が四歳の時に、妹のみやびが生まれて。最初のころは、一緒にドレスを着てアイドルごっこをしたり、本当に楽しかったの。でも、だんだん妹が……ちょっと手のかかる子になっていって。お父さんもお母さんも、お店の切り盛りとみやびのお世話で、手一杯になっていったの。」
5年前――。ひめ10歳、みやび6歳。
「ひめ! ごめん、お母さん忙しいから、みやびを探してきて!」
厨房から飛んでくる母の切羽詰まった声に、ひめは反射的に立ち上がる。
「はーい!」
そこは、花見横丁にある居酒屋『あかたん』。 夕暮れ時の活気の中、ひめは慣れた足取りで店を飛び出した。
「みやびー! どこー?」
商店街の看板の裏、近所の公園。 かくれんぼが大好きで、一度隠れると自分からは絶対に出てこない妹。 いつの間にか、いなくなった妹を見つけ出すのは、ひめの役目になっていた。
横丁を走り回っていると、見知らぬ三毛猫が路地裏からこちらを見ていた。ひめは、自分が着ているワンピースに視線を落とした。
「……こんなところに入ったら、汚れちゃうかな」
けれど、きっと大丈夫。たとえ汚れても、母がまた魔法のように綺麗にしてくれる。
ひめは意を決して、薄暗い路地裏の隙間へと踏み込んだ。 三毛猫はまるで「こっちだ」と誘うように鳴き、ひめを奥へと導いていく。ビルに囲まれた、くぼみのようなゴミ置き場。そこに、数匹の野良猫に混じって丸まり、楽しそうにうずくまるみやびの姿があった。
「あ! いた!」
ひめは安堵して、みやびの背中にぽんと手を当てた。
「わ!!」
途端にみやびは上体を起こす。
「ほら、店にかえるよ!」
「やだ!『みーつけた』って言って! じゃないと帰らない!シャーー!」
みやびは両手を猫のように丸め、無邪気に威嚇の真似をする。
「やだよ!すぐ帰るの!」
ひめは、抵抗するみやびの細い腕をぎゅっと掴んだ。 遊びを邪魔されたみやびは、癇癪を起こしてその手を思い切り振り払った。弾かれたように駆け出そうとする小さな体。しかしその瞬間、宙を掻いたみやびの指先が、ひめのふんわりとした袖口の隙間に深く引っかかった。
――ビリッ!!
鈍い音が響き、ワンピースの袖は無残にも付け根から引き裂かれた。
ひめは、ただ呆然と自分の肩に触れる。わずかに残った数本の糸だけが、かろうじて胴体と袖を繋ぎ止めていた。振り返りもせず走り去っていくみやびの足音だけが、薄暗い路地裏にパタパタと虚しく響いていた。
***
ひめが溢れそうになる涙を必死に堪えて店へ戻ると、そこには、何事もなかったかのような顔で母の手を握っているみやびの姿があった。
「あ、ひめ! お帰り。みやび、さっき一人で帰ってきたわよ。……あら、どうしたのそのワンピース」
母の呑気な声に、ひめは唇を震わせながら妹を鋭く睨みつけた。
「みやびがやったの。みやびが、破いたの……!!」
母は、困ったような顔でみやびの顔を覗き込んだ。
「そうなの? みやび」
みやびはぷい、と顔を背ける。
「ごめんね、ひめちゃん。新しいのを買ってあげるから、今回は許してあげて」
だが、ひめには到底納得できなかった。
「お母さんが作ってくれた、これがいいの……!」
「……ごめんね、ひめちゃん。お母さんもお父さんも、今は忙しくて、直してあげる時間がないの。その代わり、今度の日曜日に商店街で、もっと素敵なお洋服を見ましょう?」
「やだ!やだ!これがいいの!謝ってよみやび!!」
ひめは、その場で地団太を踏んだ。
「ごめんねひめちゃん。」
しかし、謝るのは母親ばかりで、みやびはただその光景を見ているだけだった。
「その日からかなぁ……。なんか、早く一人になりたいって思い始めたのは」
ひめは、ほまれが巻いてくれたばかりの包帯を、慈しむようにそっとなでながら呟いた。
「そうだったんだ……」
ほまれは、遠くを見つめるひめの瞳に映る、幼い日の孤独を懸命に汲み取ろうとしていた。
「ほまれ……ごめんね」
ひめは、絞り出すような声で小さく頭を下げた。
「私、どうかしてた。しずくを見てると、どうしても妹と重なっちゃって……。せっかく『こいこい』を好きになってきたのに、全部また壊れちゃうんじゃないかって、怖かったんだと思う。でも、あんな態度、最低だった」
その言葉を受け、ほまれもまた深く頭を下げた。
「私の方こそ、ごめんね。昨日は言い過ぎちゃった。自分の理想ばっかり突っ走っちゃって、ひめの気持ちも、しずくちゃんの気持ちも、ちゃんと考えてなかった」
重く沈んでいた二人の間の空気が、少しずつ、穏やかなものへと変わっていく。
「ううん。……しずくにも、ちゃんと謝らないと」
ひめは椅子から立ち上がり、窓の外へ視線をやった。夏の朝だというのに、街は急速に薄暗い影に飲み込まれようとしていた。
そこへ、がらりと店の扉が開く。
「こんにちはー! ビール瓶持ってきました……って、あれ。なんかあった?」
さいかが瓶ケースを両手で抱え、店に入ってきた。いつもと違う店内の空気を感じ取り、さいかは不思議そうに首をかしげる。
「ううん、なんでもないよ。ご苦労様」
ほまれは努めて明るく振る舞い、さいかから瓶ケースを受け取って伝票にサインを書いた。
「そういえばさ、昨日新しい子がお店に入ったんだって? 商店街の常連さんが言ってたよ。かわいい子が働いてるって」
小さな商店街だ。情報が伝わるのが早い。
「そう……なんだけど。その子、いろいろあって今朝出ていっちゃったの。だから……」
ほまれが言いかけたその時、窓の外を睨んでいたひめが弾かれたように振り返り、さいかに詰め寄った。
「私、あの子に謝らなきゃいけないの……! さいか、あの子が行きそうな心当たり、何でもいいから教えて!」
ひめのただならぬ熱量に、さいかは驚いて思わず後ずさりした。
「えっ、あ、あの子って言われても……」
「幽霊! 昨日さいかが言ってた、幽霊が出るって場所! 全部教えて!!」




