第9章ノ1 柳に燕
白くぼんやりとしていた光が、刻一刻と、容赦のない夏の日差しへと姿を変えていく。 ひめは昨晩から一睡もできなかった。
なぜ、あんなにもしずくに対して剥き出しの嫌悪感をぶつけてしまったのか。どうして自分は、彼女に理不尽に感情をぶつけてしまったのだろうか。
いや、あの子がどんくさいのがいけないんだ。仕方がなかったんだ。 ひめの中で、自分を否定する言葉と肯定する言葉が、交互に濁流となって噴き出してくる。
自分はどうしてこんなに余裕がないのだろう。ひめは、また瞼を閉じた。
すべては、あの時から始まった。
『ひめちゃん。あなた、お姉ちゃんになるのよ』
『妹ができるんだぞ』
母親と父親の、嬉しそうな顔。幼かったひめも、自然と笑顔になった。
『私? お姉ちゃん? やったー!』
不意に鮮明に蘇った幼い日の記憶を、ひめは振り払うように激しく首を振った。
「やめよう……」
これ以上横になっていても無駄だ。ひめはついに眠るのを諦めた。 頭は鉛のように重くぼんやりとしているが、とにかく体を動かそうと寝床を這い出した。
廊下はシンと静まり返っていた。
ふと、しずくを泊めた部屋の扉に目が止まる。 そこには、わずかな隙間が空いていた。
吸い寄せられるように歩み寄り、その隙間から中を覗き込む。だが、そこにはあるはずの人影はなかった。ひめは勢いよく扉を開けると、布団は丁寧に畳まれ、その上には昨日のオーダーの時に使ったメモ書きが置かれていた。
「あじふらい、おいしかったです。ひめさん、おこらせてしまって、ごめんなさい」
子供のような字で、書かれていた。
「……っ」
ひめの指先に力がこもった。しずくの拙い筆跡が残るメモが、無残にくしゃりと歪んでいく。
その時、廊下からバタバタと物音が聞こえた。異変に気づいたほまれが、部屋を覗き込んできたのだ。
「ひめ……? しずくちゃんは?」
ほまれの無垢な問いかけが、主のいない部屋の中に虚しく響く。
「知らない……!」
ひめは吐き捨てるように言うと、握りしめていたメモをほまれの胸へと乱暴に押しつけた。
「厨房、片付けてくるから」
それだけ言い残すと、ひめは逃げるようにその場を後にした。
一階の厨房へ駆け込むと、シンクには昨夜そのままにしていた皿が、うずたかく積み上がっていた。床には、しずくがぶちまけた料理皿の残骸を集めた塵取りが、放置されている。
ひめは荒々しく腕まくりをすると、流し台の前に立ち、油汚れがべっとりと付着した皿をスポンジで擦り始めた。次第に、指先に過剰な力が入り込んでいく。毛羽立ったスポンジの繊維が、ひめの柔らかな皮膚をチクチクと刺した。
「落ちない……落ちない……!」
しずくへの苛立ちか、それとも自分への嫌悪か。 ひめの手が激しく震え始める。その時だった。
パリンッ!
手が滑り、皿の角がシンクの縁に強く叩きつけられた。ひめが洗っていた料理皿が無残に割れる。
ひめはシンクに両手をついたまま、がっくりと項垂れた。泣いたらだめだ。ここで崩れてしまったら、今までの自分はどうなる。必死にこらえようとするが、視界がじわりと滲む。
ひめは震える手で、割れた破片を拾い集め始めた。洗い桶に積まれた皿の隙間に、鋭い破片が紛れ込んでいる。
「痛っ……」
不意に、尖った破片がひめの指先を深く切り裂いた。 切断面から鮮やかな赤が溢れ出し、たらたらとシンクの底へ流れ落ちる。ひめは痛みを押し殺すように、出血する指をもう片方の手で力任せに握りしめた。
しかし、血は一向に止まらない。ひめは唇を青ざめるほど噛み締め、必死に痛みを堪える。だが、指先からはぽたり、ぽたりと、涙のように血が滴り続けた。
「ひめちゃん……」
不意に、柔らかなぬくもりがひめの背中をそっと覆った。
後ろからほまれが、ひめを優しく包み込む。そして、血の滲むひめの手の上に、自分の掌をそっと重ねた。
「怪我してるよ……。手当てしないと。」
ひめは、小さくうなずいた。




