第8章ノ4 月夜に提灯
「いらっしゃいませ!」
店内に、ひめの快活な声が響き渡る。開店と同時に、表に並んでいた常連客がぞくぞくと中へ入ってきた。
「はい。これ、お冷とおしぼり。出してきて」
ひめは、しずくの両手に重いお盆を載せた。しずくは一生懸命にバランスを取ろうとするが、その足取りはおぼつかなく、見ていて危うい。 案の定、しずくの足が自分のエプロンの裾に引っかかり、大きくよろめいた。
「わあ……っ!」
お盆の上でコップが踊り、なみなみと注がれた水がしずくのエプロンを濡らす。
「失礼いたしました!」
ひめは即座にしずくの側へ駆け寄ると、近くの客の前で膝をついた。
「お客様、申し訳ございません。お水などかかりませんでしたでしょうか?」
淀みのない、丁寧な接客。幸い、ひめが万が一を考えてお盆の手前側にコップを寄せていたおかげで、客に水がかかることはなかった。
「大丈夫だよ。それより、その子新人さん? 頑張ってね」
二人組の男性客は特に気にする様子もなく、ひめの後ろで固まっているしずくに温かな声をかけた。
「ただいま代わりのお冷をお持ちいたします」
ひめはいつも以上に慇懃な口調で応じ、完璧なスタッフとして振る舞う。
「……もう、ここはいいから。向こうのお客様におしぼりだけ持って行って」
ひめは、しずくの手からこぼれたコップとお盆を無造作に奪い取ると、そのまま厨房へと向かった。
「すいませーん、オーダーいいですか?」
奥のテーブル席から声が上がる。
「はぁ……」
ひめは、隠しきれない大きなため息をつくと、伝票とペンを掴んで厨房を飛び出した。立ち尽くしていたしずくのそばまで来ると、低く鋭い声で告げる。
「……あんた、やってみて。お客様のオーダーを聞いて、紙に書く。今日はそれだけでいいから」
ひめは伝票をしずくの手へ押し付けると、呼び出しのあった客の前へと彼女を促した。
「はい、お伺いします」
「えーと、生四つと、唐揚げ、餃子二つ。あと……」
客が、一度にたくさんの料理を注文し始める。 しずくは必死に食らいつこうとペンを走らせるが、どうしても言葉の処理が追いつかない。
「えっと……アジのフライと。えっとなんだろう……」
言葉を文字に変換できず、しずくは焦燥からペン先を紙の上でぐりぐりと走らせた。その横でしびれを切らしたひめが、有無を言わさぬ口調で確認を被せる。
「生四つ、唐揚げ、餃子二つ、アジのフライ二つ。それから、ピリ辛枝豆二つですね」
ひめは一字一句違わぬ完璧な復唱を終えると、呆然とするしずくをその場に置き去りにして、厨房へとオーダーを伝えに走った。
「唐揚げ、お願いします!」
ほまれが厨房からホールへ向かって声をかける。揚げたての唐揚げが、黒い大皿に山盛りにされていた。
ひめを追うようにやってきたしずくが、名誉挽回とばかりにその皿に手を伸ばそうとする。だが、ひめがそれを遮るようにして、無造作に奪い取った。
「これは私が持っていくから。あんたは、黙ってやり方を見てて」
ひめは慣れた手つきで二枚の皿を一度に抱えると、厨房を後にした。しずくはその背中に吸い寄せられるように、ぴったりと後をついていく。
「お待たせいたしました、唐揚げ……っ」
ひめがテーブルに皿を置こうとした、その瞬間だった。
開いた入り口の扉から野良猫が横切るのが見え、それに目を奪われたしずくの体が、ふらりとバランスを崩してひめの腕に強くぶつかった。
「あっ……!」
派手な音を立てて、大皿が床に叩きつけられる。 鋭い陶器の破片と、せっかくの唐揚げが無残に混ざり合い、床に散らばった。
「…………」
ひめは、何が起きたのか理解が追いつかないといった様子で、その場に凍りついたように立ち尽くした。
「あっ……あの。ごめん、なさい……」
しずくはパニックに陥り、震える手で床に散らばった鋭い破片を直接拾い集めようとした。
「待て!」
その時、カウンターの奥から五郎の鋭い声が響き、彼は迷いのない足取りでフロアへと踏み出した。
「わっ! 大丈夫!?」
騒ぎを聞きつけたほまれも、五郎の後に続いて血相を変えて飛び出してくる。暖簾の隙間からは、小町と小鶴が不安げにこちらをうかがっていた。
「お客様、大変申し訳ございません。唐揚げはすぐに作り直させます。……こちらは、当店からの心ばかりのサービスです」
五郎は、先ほど揚げたばかりのアジフライが美しく盛り付けられた皿を、淀みない動作で客席へ差し出した。その落ち着いた大人の振る舞いに、店内の不穏な空気が一瞬で凪いでいく。
「ほまれ、塵取りを持ってこい。ひめはそのまま、他のお客様の接客に戻れ。小町と小鶴は、持ち場を離れるな。キッチンを頼む」
五郎は流れるように指示を飛ばし、最後に、呆然と立ち尽くすしずくに向き合った。
「しずく……お前は、向こうのテーブルにある割り箸を箸袋に入れてくれ。座ってできる仕事だ」
五郎は、固まっているしずくの頭を大きな手でポン、と叩く。
「大丈夫だ。ゆっくり丁寧にやれ。……慌てるな」
その低く温かい声に、しずくの肩からわずかに力が抜けた。
ひめも、五郎に指示を飛ばされて我に返ったのか、その後の営業は特に問題なく終わった。
「ありがとうございました」
最後のお客様を見送った直後だった。ひめは踵を返すと、隅で黙々と箸袋を詰め続けていたしずくのもとへ詰め寄った。
「なんなの、さっきの。……嫌がらせ? それとも、わざとなの?」
しずくは何も答えない。その沈黙が、さらにひめの神経を逆なでした。
「ひめ! そんな言い方ないよ。しずくちゃん、初めてなんだから……」
たまらず割って入ったほまれに、ひめの鋭い視線が突き刺さる。
「さっきから『初めて』って、そればっかり! ほまれはいいよね、自分で勝手に誘っておいて、自分はキッチンに籠もってるだけなんだから。私はずっと隣で気を張ってなきゃいけなかった。挙句、尻拭いをさせられるのは私なのよ!」
ぶつけようのない怒りが、今度はほまれへと向けられる。
「それに、なんでこの子にそんなに肩入れするの?」
「そ……それは……」
「もしかして、かわいそうだからって同情してるんじゃない? できない子の世話を焼いて、自分が凄いって思いたいの?」
「そんなことなっ——」
ほまれは言いかけて、言葉に詰まった。
何も知らないしずくに物事を教える時間は、ほまれに今までにない心地よさを与えていた。だが、決して「優越感」などという薄っぺらな理由ではない。 あのアジフライを食べたときに見せてくれた、しずくの屈託のない笑顔。 料理を作るということは、単に空腹を凌ぐだけではない。それは、誰かの心を満たし、生きる力を与えるということなのだ。しずくは、なんだかそういった「生きるということの根底」を感じさせてくれる。そんな彼女に、ほまれは関わっていたいと無意識に焦ってしまったのかもしれない。
「そうかも……。でも、しずくちゃんがおいしいって言ってくれて、だんだん顔色が良くなっていくのを見てたら……。それがなんだか、私、誰かの力になれてるんだって……」
ほまれは、自分自身の中にある複雑な感情を一生懸命ひめに伝えようとした。だが、ひめの表情は激しくゆがんでいた。
「偽善……」
ひめは、握りしめた拳で自らの太ももを痛いほど強く叩いた。
「そういうっ! 偽善っ! 私、大っ嫌いっ!! 何、力になるって? 本当に人の力になる、助けるってことは、そんな生易しいことじゃない。一度手を差し伸べたら、ずっと支え続けなきゃいけなくなる。それがどれだけ過酷なことか、あんたにわかる? 責任、持てるの!?」
ひめの声は、悲鳴のようにも聞こえた。
「……まぁ落ち着け、ひめ」
重く、静かな声が割って入った。五郎だ。彼はひめの肩にそっと手を置き、それ以上言葉を重ねさせないよう制した。
「しずく。とりあえず今日は上の空き部屋に泊まっていけ。先のことは、また考えよう。片付けは明日でいい。もうみんな寝ろ」
有無を言わせぬ言葉が場を支配した。 ひめは唇を噛み締め、悔しそうに顔を背けると、乱暴な足取りで2階へ駆け上がった。
***
「しずくちゃん、この部屋を使って。お布団、敷いておいたから」
祖母の愛用していた古いミシンが置かれた部屋。そこへしずくを案内し終えると、ほまれは逃げるように廊下へ出た。 パタン、と静かに扉を閉める。 その扉に背をもたせたまま、ほまれはずるずると床へ崩れ落ちた。
(責任、持てるの!?)
ひめの鋭い声が、耳の奥で何度もリフレインする。自分の差し出した手が、実は独りよがりな偽善だったのではないか。暗い廊下で、ほまれは震える膝を抱え込むことしかできなかった。
静まり返った夏の夜。 窓から差し込むうっすらとした月明かりが、部屋を青白く照らしている。
しずくは導かれるように、布団の上へとゆっくり横たわった。肌に触れる柔らかな感触は、一体いつ以来だろうか。不安や悲しみで胸がいっぱいのはずなのに、不思議と瞼が重くなってくる。
「お母さん……」
瞼が閉じる瞬間、一筋の雫が頬を伝い、枕へと吸い込まれて消えた。
同じ月明かりの下。 ひめは、自室に飾られた一着のワンピースの前に立ち尽くしていた。 引き裂かれたように無残に破れた袖。その欠損した部分を、細い指先でそっとなぞる。
「ママ……」
絞り出すような呟きは、誰に届くこともなく夜の空気に溶けていく。 ひめは込み上げる感情を堪えるように、強く唇を噛み締めた。
小望月の青白い光に照らされて、『こいこい』の赤提灯は静かに揺れていた。




