第8章ノ3 豆アジフライ
厨房にどしんと置かれたバケツの中で、活きのいい豆アジが激しく跳ねている。
「よし! 小町と小鶴はお米を炊いて。私としずくちゃんで、この子たちを揚げちゃうから!」
ほまれは威勢よく腕まくりをすると、バケツから一匹の豆アジを掴み上げた。しずくはその横で、ほまれの流れるような手つきを、瞬きもせずじっと見つめている。
そこへ、大五郎を連れたひめが遅れて厨房に入ってきた。ひめは無言のまま腕を組み、壁に背を預けてその光景を眺めている。
「ひめも、はらわた取るの手伝って〜!」
ほまれは、しずくに手順を教えながら明るい声でひめを誘った。
「しずくちゃん、まずはやってみようか。エラの下に指を入れて、そのままお腹の方へ……。そう、ぜいごも取ってからね」
ほまれに促され、しずくはおずおずと包丁を手にした。しかし、その手つきはあまりにもぎこちなく、見ているこちらが冷や汗をかくほど危なっかしい。
「わっ! だめだよしずくちゃん、手! 怪我しちゃう!」
包丁の柄の先端を、まるで汚いものをつまむようにして持つしずく。ほまれは慌ててその手を包み込み、正しい位置へと修正した。その後も何度か試してみるが、しずくは力の入れ加減や刃の向きの概念が掴めないようで、包丁さばきが一向に上達する気配はなかった。
「よし……。アジは私がさばくから、バッター液をアジにつける作業をやってもらおうかな」
ほまれは銀色のトレイに、卵と小麦粉、少々の水を混ぜ合わせた滑らかなバッター液を作ると、しずくの前に置いた。
「こうやって、しっぽを持って、ピタピタって浸すの。それから、パン粉をつけて」
ほまれは手本を示すように、ゆっくりと指示した。しっぽをつまみ、優しくバッター液に潜らせる。余分な液を落としてから、雪をかぶせるように軽くパン粉をまぶしていく。
「やってみて!」
しずくは無言で頷き、豆アジのしっぽをつまみ上げた。しかし、手本とは対照的に、アジをバッター液の中へドボンと叩きつけたかと思うと、今度はパン粉の山へぎゅうぎゅうと力任せに押しつけていく。
「わぁ……力強いね、しずくちゃん」
変わり果てた姿のアジを前に、ほまれも苦笑いするしかない。
「料理ができるとか、できないとか。それ以前の問題じゃない」
壁に背を預けていたひめが、ついに耐えかねたように歩み寄った。ほまれからアジを奪うと、無駄のない慣れた手つきで、次々と美しいフライの形に整えていく。
「……」
しずくは、ひめの怒気を孕んだ横顔をうかがうようにじっと見つめる。
「……なに?」
視線に気づいたひめは、隠そうともしない仏頂面で短く返した。その場の険悪な空気を察して、ほまれが慌てて二人の間に割り込む。
「さすがひめ! 何をするにも手際がいいね。よし、さっそく揚げちゃおう!」
場を持ち直そうと、ほまれは意識して明るい声を張り上げた。
揚げ鍋の中で、パチパチと油の弾ける心地よい音が響く。熱された油の中へ、衣のついたアジをそっと滑り込ませた。途端にシュワシュワと威勢のいい音が立ち、衣が食欲をそそるきつね色へと変わっていく。
「す……すごい」
しずくが、吸い寄せられるように揚げ鍋を真上から覗き込んだ。
「あぶないよ!」
ほまれは咄嗟に、しずくの顔を庇うように手をかざした。
「あちっ……!」
その瞬間、ほまれの手の甲に大きな油の粒が跳ねた。だが、ほまれは自分の痛みなど気にも留めない様子で、すぐさましずくの顔を覗き込む。
「大丈夫? 油、跳ねなかった?」
しずくは、何が起きたのか分からないといった呆然とした表情で、ただ立ち尽くしている。
「だい……じょうぶ」
「はぁ……。だから、やめとけば……」
ひめが忌々しげに呆れたように言いかけた、その時だった。
「もうすぐ!」
「ご飯炊ける!」
小町と小鶴の声が厨房に響き渡った。同時に、釜からは炊き立てのご飯の豊かな香りが、湯気と共にいっぱいに広がり始める。
「こっちももう揚がるよ!」
ほまれは、香ばしく揚がったものから順に、手際よく網に上げていった。ひめはそれ以上は何も言わず、皿の準備を再開した。
***
店内のテーブルの上に、山盛りのフライがどんと置かれた。付け合わせは、昨日作り置きしたベーコン入りのポテトサラダ。炊き立てのご飯粒が、照明を反射してきらきらと輝いている。
「おいし……そう」
血色の悪い紫色の薄い唇から、しずくの感嘆が漏れた。
「よし! みんなで食べよう。いただきます!」
ほまれの合図で、全員が手を合わせる。 アジフライを腹まで頬張ると、衣はサクサク、身はふんわりで、骨までしっかり火が通っているので、小町と小鶴は丸ごと豪快に平らげた。
「ふあふあ……おいしい!」
熱すぎたのか、小町は口に空気を送り込むようにハフハフと声を出す。
「もう、慌てないで! ……しずくちゃんも、食べてみて」
ほまれは、急いで作った自家製タルタルソースをたっぷりかけ、しずくの前にフライを差し出した。
「いた……だきます……」
細い指で箸を持つと、そっとフライを持ち上げた。ソースがたっぷり絡んだ部分を口に運ぶ。 しずくは、何度も味を確かめるようにゆっくりと咀嚼した。やがて、その白い頬がわずかに緩み、ごくりと飲み込む。
「すごく……おいしい…」
その屈託のない、無防備な幼子のような笑顔に、ほまれの胸は熱くなった。
「よかったら、このポテトサラダも食べてみてよ!」
ほまれは、小鉢に盛ったサラダも差し出す。ベーコン、人参、キャベツ、ブロッコリーを混ぜ込んだ、少しおつまみ風の仕上がりだ。 しずくは言われるがままに口にする。ホクホクのジャガイモが舌の上でとろけ、カリカリに焼かれたベーコンの塩気が味を引き締める。
「これも!おいしい…」
一口ごとに、にこにこと輝くようなリアクションをくれるしずく。 これまで多くの客に料理を振る舞ってきたほまれだったが、この純粋すぎる笑顔に、自分自身の心までじんわりと満たされていくのを感じていた。
「そりゃ……あんたみたいに、根本的に栄養が足りてなさそうな人なら、なんだって美味しいでしょ」
冷や水を浴びせるような声だった。 フライの衣をわざとらしくかじりながら、ひめが吐き捨てるように言った。
「そうだよね、お腹がペコペコだったら余計においしく感じるよね」
ほまれが必死に取りなそうとするが、ひめはそれを無視し、誰とも目を合わせずそっぽを向いていた。
重苦しい沈黙を破ったのは、タイマーの電子音だった。
「あ、そろそろお店、開ける準備しなきゃ」
ほまれはハッとして立ち上がると、空になった皿をまとめ始めた。ひめは何も言わず、自分の皿を手に取ると無言で流し台へ向かう。
「しずくちゃん、今日は来てくれてありがとう。豆アジ、ごちそうさま! ……あ、そうだ。お家はどこ? 近くまで送っていくよ!」
ほまれが屈託なく笑いかけると、しずくの手がぴくりと止まった。 細い指先を気持ちを落ち着かせるようにこすり合わせる。紫色の瞳がかすかに揺れる。
「家……ない……」
その呟きに、店内は水を打ったように静まり返った。
「家……ないって。えっと、」
ほまれが言葉を詰まらせると、しずくは床に視線を落とした。淡い水色の髪が、寂しげに揺れる。
「森のでっかいお家で寝泊まりしてるの。……それで……お腹がすいたから、海でお魚釣ってたの」
「森のでっかいお家って……あの洋館のこと?」
小鶴が、驚きで目を見開く。
「ええっ! あそこ、お化け屋敷みたいで怖いところだよ!」
小町と小鶴は、互いに体を寄せ合って震えだした。
「森の洋館って確か、ただの廃墟でしょ。そんなところに寝泊まりしてるなんて……マジ?」 ひめが、探るような鋭い視線をしずくに飛ばす。
「ええぇ! ……じゃあ、しずくちゃん、ここに泊まっていきなよ! 何だったらお部屋余ってるから、ここで住み込みで働いてもらってもっ」
「はぁ? ほま、本気で言ってるの?」
ほまれが言い終わるか終わらないかのうちに、ひめが顔を引きつらせて詰め寄った。
「さっきのこの子の包丁さばき、見たでしょ? 使い物になるとかならないとか、そんな次元じゃないんだけど!」
今まで聞いたこともないような、キンキンと響く声でひめがまくしたてた。
「さっきから、ひめちゃんおかしいよ! 誰だって最初は初心者だし……ひめちゃんだって、家出同然でこの店に来たんでしょ! ひめが口出しすることじゃないよ!!」
叫んだ瞬間、ほまれはハッとして固まった。 やってしまった。言い過ぎた――。
「……そうだね。確かに、私も似たようなものだわ」
ひめがポツリと漏らした。その声には、感情の起伏が一切感じられない。
ほまれはうつむき、しどろもどろになりながらも、必死に自分の本心を伝えようとした。
「ご……ごめん。私、ひめのためにもなりたいし、しずくちゃんのためにもなりたいって思ってて……それで……」
不自然な静寂が場を支配する。
「いいよ。わかったわ。……でも、当の本人は本当にここで働きたいの?」
ひめは、乱れた前髪の隙間から、射抜くような鋭い視線でしずくを見る。
「少し……やってみたい。猫ちゃんにも、おいしいご飯を食べさせてあげたいから……」
しずくは、今にも消えてしまいそうな、か細い声で答えた。
「練習すれば、猫のご飯も作れるようになるよ」
ほまれは、隣に立つひめの顔色を伺いながらも、しずくに優しく声をかけた。
「よし……じゃあ……」
ほまれの「制服」という言葉を待たず、ひめは何も言わず、店の引き出しから予備の青いエプロンを取り出した。
「……余分な制服なんてないから。これでも使って」
ひめは乱暴にしずくへエプロンを押し付けると、「準備してくる」とだけ言い残し、硬い表情のまま二階へと消えていった。




