第8章ノ2 波打つ心
商店街の入り口を抜け、潮の香りに誘われるように坂を下ると、そこには夏の陽光をきらきらと反射する青い海が広がっていた。
「はぁ、はぁ……っ。大五郎、どこ……!」
汗を拭いながら防波堤まで走ってきたほまれは、そこで思わず足を止めた。テトラポットが並ぶ静かな岸壁に、座り込む小さな背中が見えたからだ。 数えきれないほどの野良猫たちに囲まれるようにして、一人の少女がぽつりと座っている。透き通るような白い肌と、淡い水色の髪が、夏の潮風に静かに揺れていた。
「にゃおおおおん!」
聞き慣れた大五郎の声が響く。見れば、大五郎は先ほどの白猫と並んで、少女の持つ小さなバケツを食い入るように見つめている。
少女は、慣れない手つきで釣り竿を操っていた。ピチピチと跳ねる小さな豆アジが釣り上がると、彼女はそれを足元で喉を鳴らす猫たちへと、迷わず放り投げた。
「……あ」
その時、ほまれと少女の目が合った。 少女の瞳は、吸い込まれそうなほど深い紫色をしていた。強い日差しの中に立つ彼女は、あまりの細身と肌の白さのせいで、今にも陽炎に溶けて消えてしまいそうなほど儚い。
「……お腹、空いてるの?」
少女がぽつりと呟いた。その言葉はほまれに向けられたものか、それとも猫たちへのものだったのか。それは、後方から聞こえてきた聞き慣れたひめの声にかき消されてしまった。
「ほ、ほま! 待ってよぉ……!」
後ろから、息を切らしたひめと双子たちが合流した。
「わぁ! かわいい!猫がたくさんいる!」
「本当だ! 小鶴……なでなでしたい!」
双子は、ひしめき合う野良猫たちにテンションが上がったのか、弾かれたように猫たちの元へ駆け寄っていった。
「ねえ、あの……。もしかして、商店街で噂になってるのって……」
ひめは、驚きを隠せない表情のままほまれの横で足を止めた。
「多分……そうだと思う。あんなに猫に囲まれている子、ここらじゃ他にいないし」
夜の暗がり、無数の猫を引き連れて歩く女の幽霊。
「ねぇねぇ、猫ちゃん、なでなでしてもいい?」
小鶴が目を輝かせながら少女に尋ねた。
「いい……よ」
少女は、消え入りそうなほどか細い声で答えた。
小鶴が身を屈めて黒猫の頭を優しく撫でると、「みゃんおぉ」と黒猫は喉を鳴らす。人間に慣れているのか、まんざらでもない様子で目を細め、小鶴の手を歓迎した。
「小町も! なでなでしたい!」
小町も我慢できなくなったのか、懇願するような目で少女を見つめる。
「いいよ」
少女は顔色一つ変えずに、淡々と答えた。 小町は、黒猫の隣にぴったりと寄り添っていた白猫の頭に手を伸ばした。
「か! かわいい!!」
優しい手つきながらも、抑えきれない興奮を指先に滲ませて、白猫の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「みゃんお」
白猫もまた、気持ちよさそうに目を細めながら、小町の手のひらに自分の頬をすり寄せた。
双子があっさりと受け入れられたことにホッと胸をなでおろすと、ほまれも猫たちを驚かせないよう、そっと輪の中へ足を踏み入れた。 小町が愛でていた白猫の隣には、大五郎が我が物顔でどっしりと鎮座している。その姿に少しだけ呆れながら、ほまれは少女に向かって明るく声をかけた。
「あの。私、桐ノ木ほまれって言います! すみません、うちの猫がお世話になっているみたいで……」
「ぶにゃにゃ」
大五郎はほまれの方を見向きもせず、何かを言い捨てるように短く鳴いた。 すると、それまで人形のように無表情だった少女が、大五郎の言葉を聞いてふっと表情を和らげ、くすくすと一人小さく笑い出した。
「え……?」
(私、何か変なことしたかな?)
ほまれが不思議そうに首を傾げていると、後ろで様子を伺っていたひめが動いた。
「私は、桜城 ひめ。よろしくね」
にじり寄るようにして名乗ったひめの瞳を、少女は真っ直ぐに捉えている。けれど、一向に挨拶の返事が返ってくる気配がない。ただ、じっと深淵を覗き込むような紫色の瞳が、ひめを射抜いているだけだ。
「あの……お名前、教えてくれますか?」
ほまれは、少女の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「わたしは……しず……」
か細い声は、語尾に向かってどんどん小さくなり、最後は波の音にかき消されてしまった。
「え?」
ひめが、少し苛立ちを滲ませた様子で聞き返す。その沈黙を破るように、双子が声を上げた。
「私は小鶴!」
「私は小町! ……と、大五郎!」
二人は茶目っ気たっぷりに片手を挙げ、ついでに大五郎の前足もぐいっと上へ持ち上げた。
「お二人さんは今はいいの! ……ごめんね、聞こえなかったんだけど、もう一回教えてもらえる?」
ひめが双子の手を優しく下げさせると、改めて少女に名前を促した。
「……やなぎ……しずく……」
「しずくちゃんって言うんだ! 綺麗な名前だね!」
ほまれはパッと表情を明るくすると、右手を差し出して握手を求めた。しずくも、透き通るような白い手をゆっくりと差し出す。 ほまれがその手を握った瞬間、あまりの細さと、血の気のない軽さに、思わず息を呑んだ。
とその時。
「……ぐぅぅぅ」
静かな海辺に、しずくの薄いお腹から情けないほど大きな音が響き渡った。
「……あ」
しずくは、きょとんとした顔で自分のお腹をさすった。
「あはは……ねえ、うちの店で何か食べていかない? そのお魚少しだけ使わせてくれたら…」
ほまれが、バケツの中の豆アジを指差して笑いかけた。ほまれの頭の中にはすでに、豆アジを使った料理が湧き出てきていた。すると、しずくは不思議そうに小首を傾げた。
「……お魚、食べるの?」
「え? だって、自分で釣ったんでしょ?」
「……一回、食べてみたんだけど。そのまま食べたら、すごくお腹が痛くなって。それからは、食べてない。これは、猫さんの」
淡々とした、まるで他人事のような口調。
「……嘘でしょ?」
同時に、ひめがギョッとした顔で叫んだ。アジはアニサキスを保有している可能性が高い。十分に加熱するか、生食なら適切な処理が不可欠だ。
しずくは何が起きたのか分からないといった無垢な表情で、ほまれたちをじっと見つめている。 ひめはその顔を見て、言いようのない、胸の奥底を冷たい手で撫で回されるような嫌悪感を覚えた。自分の過去の、目を背けたい記憶と重なるような危うさ。しかし、ひめ以外にそれを気にする様子はなく、みな至ってあっけらかんとしている。
「生で食べるのは、ちょっと危ないけど……しっかり火を通せば美味しいから! 一緒に食べよ! 小鶴、小町、しずくちゃんをお店まで案内してあげて! ひめも、いいよね? これも何かの縁だし、みんなでお昼食べよう!」
ほまれが期待を込めて勢いよく振り返る。しかし、そこにあったのはいつもの柔らかな微笑みではなく、石のようにこわばった表情だった。
「私は……やめておいたほうがいいと思う。本人も、あんまり乗り気じゃないみたいだし」
あまりにも冷めた答えに、場に重苦しい沈黙が流れる。
「え……どうして?」
「いや、だって。どこの誰かもわからないし……。それに、なんていうか……」
いつもと違うひめの態度に、ほまれが困惑しながら問いかける。だが、ひめは気まずそうに視線を逸らしたまま、それ以上言葉を繋げることはなかった。
「小町はしずくと一緒にご飯食べたい!」
「小鶴も!」
小町と小鶴は、ひめのことなど気にも留めていない様子ではしゃいでいる。
「二人もこう言ってるし、いいよね!」
ほまれは、バケツにたっぷり入った豆アジを手に取ると、料理に使う分を数匹残して猫たちに分け与え、店へと歩き出した。小町と小鶴は、しずくの左右の手をそれぞれ握り、「行こう!」と元気よく引っ張り、ほまれの後を追った。
三人の背中を見つめるひめの拳は、白くなるほど強く握りしめられていた。 心の奥から湧き上がる、得体の知れない苛立ちと衝動を抑え込むように、彼女は自分の太ももを力いっぱい打ち据える。
足元で豆アジに群がる猫たちの中、大五郎だけは顔を上げ、ひめの横顔をじっと見据えていた。




