第6章ノ3 ほうれん草のバター炒めと、砂肝
店内に飛び込むと、そこには異様な光景が広がっていた。カウンターに力なく突っ伏している一人の女性と、その真横にちょこんと座り、まるで介抱するように寄り添う三毛猫の大五郎の姿があった。
「大丈夫ですか!?」
ほまれが慌てて女性のもとへ駆け寄る。三十代くらいだろうか、スーツは乱れ化粧もだいぶ崩れている。女性はわずかな力を振り絞るようにして顔を上げると、「……み、水をください……」と、今にも消え入りそうな、か細い声で絞り出した。
「ひめ、お水お願い!」
ひめは力強く頷くと、カウンターの内側へ飛び込み、手際よく氷を入れたお冷を用意した。 女性客は、差し出されたグラスを奪い取るようにして受け取ると、震える手で一気に飲み干した。
「ぷはぁ……! ありがとうございます……。死ぬかと思った……。帰る途中で急に気分が悪くなっちゃって。よく考えたら、朝から何も食べてなかったから……」
女性はコップに残った氷を、無意識にボリボリと噛み砕いて食べ始めた。その様子を見て、ほまれの表情が引き締まる。
「……もしかして、お姉さん、普段から貧血になりやすかったりしますか?」
青白い顔色、そして氷を貪るように食べる「氷食症」の仕草。これは鉄分不足の人に多く見られる典型的な症状だ。
「あぁ、確かに。最近ダイエットでお肉とか控えてたから……」
ほまれは合点がいったという表情で、思考を高速回転させた。 空っぽの胃を驚かせず、かつ効率よく鉄分を補給できるもの。料理人としてのスイッチが、カチリと入る。
「小町ちゃん、小鶴ちゃん。二人は、お客さんをゆったりできるソファ席までご案内して」
双子は目配せすると、すぐさま女性の両脇から小さな肩を貸した。
「ひめ、私と一緒に料理作るの手伝って!」
ほまれは冷蔵庫を開け、迷いなく食材を取り出した。貧血に効く鉄分がたっぷりと含まれた「砂肝」と「ほうれん草」。これを使って、空っぽの胃の食欲を優しく刺激し、しっかり血肉になる一品を作る。
「ひめ、ほうれん草を茹でて、食べやすい大きさに切ってくれる?」
「了解!」
ほうれん草は茹ですぎると溶けて食感が損なわれてしまう。ひめは沸騰したお湯に塩を二つまみほど入れ、茎の方からそっと沈めた。葉まで完全に入れてから1分ほど茹で、少ししなっとしたところで素早くお湯からあげる。色鮮やかな緑を保つため冷水に浸し、水気を絞ってから幅3cmほどにカットした。
「ほま、切れたよ!」
その間に、ほまれは砂肝の下処理を進めていた。 特有の青白い筋(銀皮)を包丁で丁寧に取り除き、分厚い身には火が通りやすいよう細かく切れ目を入れていく。ボウルに砂肝を移し、すりおろしたショウガと塩コショウをしっかりと揉み込んで臭みを取った。
「ありがとう! こっちも準備OK!」
ほまれはコンロに火をつけ、フライパンにバターを5g引き、ニンニクのみじん切り少々を入れる。熱せられたバターが溶け出し、食欲をそそるニンニクの香りがふわりと立ち上った。 そこへ1cm幅に切ったベーコンを投入。少し焦げ目がついたところで先ほどのほうれん草を加え、全体にバターのコクを絡める。仕上げに中華調味料小さじ1と胡椒を適量振り入れ、手早く味を調えて小皿に盛った。
続いて、別のフライパンに油を薄く引き、下味をつけた砂肝を投入する。
ジュワァァッ!!
勢いよい音と共に、ショウガの爽やかな香りが弾けた。砂肝の色が変わり、中までしっかりと火が入ったところで、最後にあらびき黒コショウをたっぷりと振って味を引き締める。
「よし……できた!」
ほうれん草とベーコンの鮮やかな緑とピンク。そして、黒コショウを纏いツヤツヤと光る砂肝の炒め物。ニンニクとショウガの香りが混ざり合い、見ているだけでお腹が鳴りそうな鉄分たっぷりメニューが完成した。
ほまれはそれを丁寧に冷めないようお盆に乗せ、女性の待つソファ席へと運んだ。
「お待たせしました。ほうれん草のベーコン炒めと、砂肝のおつまみです」
「それと、温かい黒豆茶もどうぞ! 鉄分も入ってるし、体に優しいですよ」
ひめが横からスッと、湯気を立てる黒豆茶の入った湯呑みを差し出した。
「ありがとうございます……いただきます」
女性は箸を取り、まずは砂肝を一口運んだ。
「……お、おいしい」
コリッとした小気味良い食感と共に、ショウガの風味が口いっぱいに広がる。一口食べただけなのに、女性の声は先ほどよりずっと張りのあるものに変わっていた。
「砂肝ってカロリー少ないから、ダイエット中でも罪悪感なく食べられますね……ほうれん草も、バターのコクがあって美味しい……」
女性はコリコリとした砂肝と、柔らかなほうれん草を交互に、次々と口へ運んだ。全てを食べ終わる頃には、頬にポッと赤みが差し、見違えるほど血の気が戻っていた。
「ごちそうさまでした。ご迷惑をおかけしたのに、こんなに温かいご飯まで……」
女性が深々と頭を下げると、ほまれとひめは顔を見合わせ、満面の笑みを返した。
「それと、双子さんも。手のマッサージ、ありがとうね。すごく楽になったわ」
料理を待つ間、小町と小鶴が懸命に女性の指先を揉みほぐし、血行を良くしてあげていたようだ。
「猫ちゃんみたいに…手をふみふみしただけ…」
「顔色よくなってよかった」
双子の少し誇らしげな顔。その光景をカウンターの隅で見守っていた大五郎は、満足そうに「にゃおん」と、ひときわ大きく鳴いた。
***
夜のとばりが降りる頃。ほまれは店先で一人、物思いにふけっていた。
ひめが抱えているものは、一体何なのだろう。自分を救ってくれた彼女のために、一緒に解決策を考えたい。けれど、ひめの心の扉には、重く固い錠が下ろされているようだった。
「……どうした」
不意に低い声が背後から響いた。振り返ると、そこには五郎が立っていた。
「五郎さん……ひめって、家出じゃないんだよね?」
ほまれは、すがるような真剣な眼差しで尋ねた。
「あぁ。両親にはこちらから連絡を取ってある。ひめ本人からも、しばらく住み込みで働く旨は伝えてあるそうだ」
「そうなんだ……。ひめに何があったんだろう。私、自分に何ができるのか分からないけど……それでも彼女の力になりたい!」
静まり返った夜の商店街に、ほまれの切実な声がこだまする。
「落ち着け、ほまれ」
五郎の静かな制止に、ほまれはハッとして顔を上げた。
「ひめが自分から動き出すまで、待ってやれ。……お前の両親が、お前に対してそうしてくれたようにな」
五郎はそれだけ告げると、背を向けて店の中へと戻っていった。
「……そうだよね」
ほまれは小さく呟き、自分を律するように深く息を吐くと、五郎の後に続いた。
二人が店内に消え、再び静寂が街を包み込む。 二階の部屋の、わずかに開かれたカーテンの隙間から、月の光が吸い込まれていく。窓際に立ち尽くしていたひめは、夜風に吹かれながらただ静かに月を見上げていた。




