第5章ノ1 芒に月
ほまれたちの朝は早い。山のような洗い物を片付け、フロアを磨き上げ、息つく間もなく仕込み作業が始まる。
「くぅ……目が、目が染みる。長ネギって、たくさん切ってると涙が止まらなくなるんだ……新発見……」
ほまれは、家庭では到底見ることのない量の長ネギと格闘していた。 付け合わせの白髪ねぎ、炒め物用のみじん切り。一口に「切る」と言っても、その用途は様々だ。まな板から容赦なく立ち上がる刺激臭に、ほまれの瞳はみるみる潤んでいく。
「うぅ、ネギくさっ!」
ひめが自分の手を鼻に近づけたかと思うと、反射的に弾かれたように手を離した。
「ネギの匂いって、洗っても意外と取れないんだよね……。この後、ニンニクとショウガのみじん切りも待ってると思うと……」
ひめは、銀ボウルにうず高く積み上げられたニンニクとショウガの山を、絶望的な眼差しで見つめた。 その視線の先で、何もせず銅像のように固まっている五郎が目に入る。
「ちょっと五郎さん! そんなところで突っ立ってないで、手伝ってよ!」
ひめが器用に包丁を動かしながら、硬直している五郎を鋭く睨んだ。 いつもなら、超スピードで朝の支度を片付ける俊敏な彼が、今回ばかりはなぜか顔を青くして、ずるずると後ずさりしている。
「い、いや……。俺は、その……。ネギは、ちょっと……」
「五郎さんって、ネギ苦手なの?」
ひめの素朴な問いに、五郎はハンカチで鼻を押さえながら、うめくように答えた。
「ま、まあ……そんなところだ。生理的に、どうしても受け付けん……」
(ああ、そういえば……)
ほまれは、涙で潤んだ視界の隅でハッと思い出した。 猫にとって、ネギやニンニクは毒そのものだ。人間の姿をしていても、その鋭すぎる嗅覚と本能までは誤魔化せないらしい。
「無理しなくていいよ」
事情を知るほまれは、ネギの刺激に耐えながらも五郎に優しく声をかけた。
「なに、ほま、優しいじゃん〜」
ひめがニヤニヤしながら、ほまれを肘でつつく。
「そ、そんなんじゃないよひめ! 誰にだって苦手なものくらいあるでしょ!」
ほまれは一瞬にして顔を赤くし、動揺のあまり手に持っていた長ネギをブンと振り回した。
「痛っ……!」
勢い余ったネギの先端が、ほまれの目元にクリーンヒットする。切りたてのネギから放たれた強烈なエキスがダイレクトに瞳を襲い、ほまれは「うぅ……っ」と悶絶しながら片目を押さえた。
「ごめんごめん! 私たちでとっとと片付けちゃお」
ひめは快活に笑うと、ネギの刺激で潤んだほまれの目元を、自身の制服の端でぐいっと拭った。
「……すまんな。俺は出汁でも取るとする」
リンリンリンリンッ――!
五郎が申し訳なさそうに言い終わるか終わらないかのうちに、店内に電話のベルが鋭く鳴り響いた。
「朝っぱらから、なんだ……」
五郎が不審げに眉を寄せ、受話器へと向かう。
「もしもし、お電話ありがとうございます。小料理屋『こいこい』です」
五郎が応対している間も、ほまれとひめは包丁を動かし続けていた。トントントン、とリズム良く響いていたその音が、五郎の返答を聞くうちに、一拍、また一拍と遅れて止まっていく。
「……はい。ええ、30名。……はい、本日。……承知いたしました。お待ちしております」
受話器を置いた五郎の顔は、これまでにないほど険しくなっていた。
「ひめ、ほまれ。今日の夜、宇宙開発機構のお客さんが、職場の暑気払いで30名の団体を連れてくる」
「さ、30名!?」
ひめが悲鳴のような声を上げた。 宇宙開発機構、通称『NYAXA』。最近、月見商店街の裏手にある「奥の森」と呼ばれる山頂に、巨大な天体望遠鏡を備えた施設が建設されたばかりだ。 商店街からほど近いその施設には多くの職員が通い始めており、彼らを取り込めるかどうかが、寂れた月見商店街の行く末を握っていると言っても過言ではなかった。
「ちょっと待って、キッチンとホール合わせて3人だよ!? 3人で30人なんて、笑えないって!」
実家の商売で現場の過酷さを知るひめが、焦った様子で五郎に詰め寄る。
「……ああ。確かにスタッフ3人なら、客の適正人数は20人前後だ。30人を回すのはかなり厳しいだろうな。ましてや俺たちは、まだチームを組んで間もない……」
「だったら! 今からでも断ったほうがいいよ! 事故が起きてからじゃ遅いじゃん!」
「いや、それでも……宇宙開発機構の客は断れん」
五郎の言葉は重く、そして静かだった。その眼鏡の奥には、今まで見たこともないほど真剣で、どこか鬼気迫るものがある。
「あそこの客が隣町に流れたら、それこそ本当に月見商店街の息の根が止まる。何とかするしかないんだ」
「でも……無理に詰め込んで、提供が遅れたり味が落ちたりしたら。それこそ信用を失って、二度と来てもらえなくなるんじゃない?」
ひめの言葉には、自身の経験からくる切実な懸念が滲んでいた。 二人の間に重苦しい沈黙が流れる。 その時、それまでじっと手元を見つめていたほまれが、ゆっくりと口を開いた。
「私……五郎さんに賛成。せっかく私たちが作るものを気に入ってくれているのに、断りたくない。……やりたいよ」
不安そうなひめの瞳と、覚悟を決めたほまれの視線が交差する。 その限界ギリギリの均衡を破るように、店の引き戸が勢いよく開け放たれた。
「「こんにちは」」
重なり合った二つの声が、店内に響き渡った。 それまでの張り詰めた空気は一瞬にして霧散する。三人は目を丸くして、入り口に立つ瓜二つの少女たちを凝視した。
「お野菜、届けに、来たよ」
二人の足元には、朝の光を浴びた瑞々しい夏野菜が、竹籠から溢れんばかりに詰め込まれている。
「ど、どちらさま……ですか?」
ひめが呆然としたまま問いかける。逆光の中に立つ二人は、まるでお伽話から抜け出してきたかのような不思議な存在感を放っていた。
「私は、小町」
健康そうに日に焼けた褐色の肌。そこに、クリーム色にまで色が抜けた、さらさらとした金髪のストレートヘアが風に揺れる。
「私は、小鶴。小町の双子の妹」
小町と名乗った少女に比べて、小鶴は柔らかな髪が毛先でカールしている。だが、遠目に見ればほとんど差がわからない。一卵性の双子であることは、誰の目にも明らかだった。
「もしかして、芒野農園の孫か!」
五郎がこれまでにないほど興奮した様子で、身を乗り出して双子に近づいた。その圧倒的な圧力に、姉の小町は少し顔をひきつらせて後ずさりする。
「小町、困った。……あなた、誰?」
小町は右手をポンと頭の上に置いて、眉をひそめた。
「あぁ、すまん。つい取り乱した。俺は、その……芒野さんのところの爺さんには、以前よくしてもらったことがあってな。確か先代……いや、桐ノ木のじいさんとは、大の囲碁仲間だったよな」
五郎は咳払いを一つして、平静を装う。
「そう。よく知ってるね、お兄さん」
妹の小鶴が、値踏みするように五郎の顔をじっと覗き込みながら言った。
「ああ、よく覚えてる。芒野さん家の縁側で、二人が碁盤を挟んで何時間も唸りながら睨み合っていたのを……」
五郎はそこまで言って、ハッとした。人間の姿でその光景を間近で見ていたとしたら、あまりに不自然だ。
「……あ、いや! 噂で、な。その、通りかかった時に遠くから見かけたことがあるんだ。そう、すごく日当たりのいい縁側だったから、印象に残っていてな」
五郎は怪しまれないよう、必死に取り繕うように答えた。その様子をほまれはハラハラしながら見つめ、なにかあったらいつでもフォローできるように身構えていた。 五郎の動揺を見透かしてか、小鶴がふっと口角を上げる。
「ふーん。お兄さん。隠し事、下手だね」
小鶴はその鋭い瞳で、五郎の目を射抜くように見据えた。
「っ……!」
五郎が言葉に詰まると、小鶴はクスクスと喉を鳴らして楽しそうに笑った。
「小鶴……あんまりいじめるの、よくないよ」
姉の小町が、行き過ぎた妹を穏やかに制止する。
「……ま、いいや。この街を良く知る人に、変な人はいないもんね」
小鶴は自分を無理やり納得させるようにそう言うと、ふいっと身を引き、五郎への追及をやめた。 五郎は目に見えて安堵した様子だ。
そんな空気の余韻をかき消すように、ほまれが竹籠に歩み寄り、身を乗り出して覗き込んだ。
「それにしても……綺麗なお野菜……!」
ネギのせいで潤んでいたほまれの視界が、野菜の放つ鮮烈な色彩によって一気に晴れ渡った。 籠の中で跳ねるように重なっているナスは、黒真珠のように深い紫色の光沢を放っている。きゅうりはトゲが痛いほど立ち、トマトは夏の太陽をそのまま閉じ込めたかのように真っ赤で重そうだ。
「そう? うれしい。きゅうりにナス。これ、全部おじいちゃんに教わって、2人で作ったの」
小町が誇らしげに胸を張り、可愛らしく笑う。
「2人で……? こんなに立派なのを?」
ひめも思わず、ニンニクのボウルを置いて近寄ってきた。五郎も3人につられ、野菜をのぞき込む。
「本当にお見事なものだな。これだけの素材があれば、シンプルな味付けでも十分おいしくなりそうだ」
五郎の言葉に、小鶴が少し得意げに口角を上げた。
「だったら、おいしいレシピあるよ。よく2人で食べてるやつ」
小鶴と小町は顔を見合わせると、同時に「ねー」と頷いた。
「え! 教えてほしい!」
ほまれの料理への関心は人一倍だ。潤んでいた瞳をキラキラと輝かせ、身を乗り出す。
「いいけど……厨房借りていい?」
「うん! もちろん自由に使って!」
ほまれは「さあさあ」と促すように、双子を厨房へ招き入れた。 5人が厨房の中に集結する。双子は持ち込んだ野菜を籠から出すと、驚くほど手際よく包丁で下処理を始めた。
「本当に簡単だよ」
小町が楽しそうに言いながら、半袖を肩までたくし上げる。 2人はナスとキュウリをスライサーで一気に薄切りにし、ジッパー付きの袋へ流し込むように詰めていく。そこへ迷いのない手つきで調味料を投入していった。キュウリ1本、ナス1本に対して、塩麴を小さじ1、塩昆布を大さじ2。
「ほんの少し甘みを足すと、味に統一感が出るんだよね」
小鶴がそう付け足し、最後に砂糖を指先でパラリと加えた。
「あとは、袋をもみもみして完成!」
小町と小鶴は、まるで見えない糸で繋がっているかのような一糸乱れぬシンクロを見せ、ものの数分で鮮やかなお漬物を作り上げた。
「本当にシンプルなんだね……」
ほまれは、無駄のない2人の動きに感心したように頷いた。
「えぇっ、すごい! さっそく一口!」
ひめが小さめの小鉢と割り箸を人数分用意し、手際よく取り分ける。
「いただきます! ……えっ、おいしい!」
真っ先に口に運んだひめが、感嘆の声を漏らした。
「私もいただきます……。本当だ、さっぱりしていておいしい」
ほまれは味の構成を確かめるように、何度も咀嚼して頷く。
「……うん、うまい。塩こうじのまろやかな塩味と昆布から出た出汁が絶妙だ。複雑な味付けにしていない分、野菜そのものの生命力を感じられる」
「小町うれしい!」
「小鶴もうれしい!」
五郎の称賛に、2人は顔を見合わせて嬉しそうに笑った。
「これなら一気にたくさん作れるし、今日の団体さんのお通しにしちゃおう!」
ほまれが感激した様子で言うと、小鶴がふと手を止めて首を傾げた。
「さっきお店に入る前にも少し聞こえちゃったんだけど……団体さんって、そんなに凄いの?」
「そうなの……。30人って聞いてて……っ」
ほまれが言いかけたその時。
リンリンリンリンッ――!
逃れられない運命のように、店内に再び電話のベルが激しく鳴り響いた。 五郎が受話器を取る。その場の全員が息を呑んで見守る中、受話器から漏れる声を聞くうちに、五郎の端正な顔がみるみる蒼白になっていく。
「え……さらに10人、追加ですか。……はい、席は……、あ、いえ、なんとかご用意いたします。お待ちしております」
受話器を置く五郎の手が、わずかに震えていた。
「五郎さん……まさか」
ひめが恐る恐る尋ねると、五郎は絞り出すような声で答えた。
「……40人だ。上役が突如参加することになり、断りきれなかったらしい」
「よ、40!? 嘘でしょ、お店パンパンじゃん!」
ひめがカウンターに突っ伏して絶叫した。 30人ですら限界だったのに、さらに10人の上積み。それはもはや、丁寧なサービスを維持することが不可能な「戦場」を意味していた。
重苦しい沈黙が厨房を支配する。 その時、小鶴と小町が顔を見合わせた。2人は一度だけ頷き合うと、迷いのない瞳で五郎とほまれを真っ直ぐに見つめた。
「よかったら、うちらも手伝おうか?」
小鶴が、少し照れくさそうに、けれど確かな意志を込めて言った。
「うちら、農作業で体力だけはあるし。おじいちゃんの友達のお店、なくなっちゃうの嫌だもん」
小町も隣で、力強く微笑む。
「……いいの!? 本当に、本当に助かる……っ!」
ほまれは、救世主が現れた喜びに瞳を熱くし、2人の手をぎゅっと握りしめた。
「あぁ! 女神様だ! 双子の女神様……っ!」
ひめは感動で瞳を潤ませながら、双子をまとめて抱きしめた。
「いや、本当にありがとう。感謝する」
五郎は柄でもなく、2人に向かって深々と頭を下げた。
「でも……制服って、ひめと私の2人分しか作ってなかったよね……どうしよう……」
ほまれが腕を組み考え込むと、隣にいたひめがニヤニヤと口角を上げた。
「それなら……大丈夫。ふふふふ……みんなついてきて!」
ひめの先導で、階段から響く賑やかな足音が2階へと遠ざかっていく。 ふいに静寂が降りてきた。五郎は一人、何の変哲もない厨房をじっと見渡した。その目は、これから始まる戦場を見据えているかのように鋭く光っていた。




