第5話 11月28日 トウヤ
※この小説の続きをスムーズにお楽しみいただけるよう、【ブックマークに追加】を押して設定を保存してください。
大学の正門。アプリで配車したタクシーが到着するまでのわずか数分間、俺は正直、激しい苛立ちを覚えていた。
講義を終えた学生たちが正門を通り過ぎる度に、俺たちに向けられる無遠慮な視線。ヒソヒソとした、悪意を含んだ噂話の声。
人が苦しんでいる様が、そんなに面白いのか。野次馬根性丸出しの連中に激しい嫌悪感が湧き上がる。
俺はうずくまるミキを周囲の目から遮るように、自分の身体で強く抱きすくめた。
その間も、彼女の容態は快方へと向かうどころか、ますます悪化していく。
「水……、みず……」
ミキはうわ言のように、掠れた声で何度もそう繰り返すようになっていた。
喉が渇いて飲み物がほしいのか。そう思った俺は、咄嗟にカバンから買い置きしていたペットボトルのお茶を取り出し、彼女の口元へ運ぼうとした。
だが、ミキはそのお茶のボトルを見た瞬間、まるで猛毒でも突きつけられたかのような激しい忌避感を露わにし、怯えて身を引いた。慌ててお茶をカバンへと戻す。一体どうしてしまったというのか。
数分後、フロントガラスに『予約』の赤文字を光らせたタクシーがようやく到着した。
俺は救いを求めるように、大きく手を上げて運転手へと合図する。
「ミキ、立てるか」
俺が脇を支えて声をかけると、彼女はふらふらと、まるですべての筋力を失ってしまったかのようなおぼつかない足取りで、どうにか立ち上がった。
ガチャリ、と自動でタクシーのドアが開く。
車内特有の独特な芳香剤の香りがツンと鼻をつき、怪訝そうな顔をした運転手が声をかけてきた。
「お客さん、どこま――」
「XX町、YYマンションまで。急いでください」
運転手が言い切るより先に被せるようにして彼女の住所を伝え、俺はミキの身体を真っ先に後部座席へと押し込んだ。
滑り出したタクシーの車内で、窓の外を流れる景色を眺めながら、俺の頭は激しく混乱していた。
本当に家で良かったのだろうか。本当は救急車を呼ぶか、直接しかるべき病院へ担ぎ込むべきだったのではないか……。そんな今更な後悔と自問自答が、ぐるぐると頭を駆け巡っていた。
◇
マンションへ到着するやいなや、俺は財布から万札をひったくるようにして取り出し、運転席と助手席の間にあるトレーに叩きつけるように置くと、すぐに車を降りた。
背後で運転手が「お客さん、お釣り!」と大声を上げていたが、今の俺にはそれどころではなかった。お釣りなんかどうでもいい。
ぐったりとした彼女の身体を引きずるように支えながら、エレベーターへ駆け込む。上昇する不快な浮遊感を経て、6階へ。
ガチャ――。
合鍵で扉を開け、見慣れたワンルームへと足を踏み入れる。
脱ぎ捨てられた衣類や本が少し乱雑に散らかったその部屋は、かつての元気だった彼女の日常を強く思い出させ、俺の張り詰めた神経を妙に落ち着かせてくれた。ここなら大丈夫だ、そう自分に言い聞かせる。
ミキの靴を急いで脱がせ、ベッドへと横たわらせる。
その際、彼女の背中を支えたときに、手のひらに嫌な感触が伝わってきた。
(……なんだこれ、すごい汗だ……)
上着の上からでもはっきりと分かるほどの、異常な発汗。もうすぐ冬が来るというほど外は冷え込んでいるのに、このじっとりとした汗の量は明らかに異常である。
「大丈夫か、待ってろ」
このまま汗をかいた身体を放置すれば、冷えて大変なことになる。まずは、着替えさせなければ。
俺はクローゼットへ走り、彼女が普段から愛用しているスウェットの寝間着をひったくるように掴むと、すぐにベッドの彼女の元へと戻った。
「ミキ、服、脱がすぞ」
そう声をかけ、濡れた肌着をめくるようにして脱がせた瞬間――俺は、自分の目を疑った。
「……なんだよ、これ……」
彼女の上半身は、おぞましい赤黒い痣で埋め尽くされていたのだ。数日前に首元で見た、あの鞭で叩かれたような細長い歪な痕。それが、胸元、腹部、腕、至る所に無数に、執拗に刻まれている。
「おい、これ……ミキ、どうしたんだよ!?誰にやられたんだ!」
俺の悲鳴のような問いかけに、ミキは狂ったように首を横に振った。
「水音……ぴちゃ、って……ああ……やめて、お願い、だ、からやめて……!」
見開かれた彼女の瞳孔は完全に開ききっており、俺の顔すら映していない。焦点が全く定まっていない目で、天井の虚空を睨みつけている。
「水がどうしたんだ!おい、ミキ!」
「聞こえ、るの……ぴちゃぴちゃ……耳の中で……ちょ、くせつ……あああ、あああああ!」
叫び声を上げると同時に、ミキはベッドの上で激しくもんどり打ち、のたうち回った。頭を掻きむしり、耳の奥から響くその幻聴を、必死に拒絶するように暴れる。
「やめて……叩かないで……!痛い、痛いぃ!」
その瞬間、俺は人間の理解を超えた恐怖の光景を目撃した。
(増えて、る……?)
俺の目の前で、彼女の肌に新たな痣が次々と浮かび上がってきたのだ。
まるで目に見えない何かが、凄まじい勢いで彼女の身体を鞭打ち続けているかのように。意思を持っているかのように這い回り、じわり、じわりと、彼女の白かったはずの肌を赤黒く染め上げていく。
「いや……トウヤ、たすけて……いたいよ、痛いよぉ……っ!」
「何が、何が起こってるんだよ……!しっかりしろ!」
「あああああ! 叩かないで、ごめんなさい……!許して、あああああああ!」
悲痛な絶叫が狭いワンルームに響き渡る。
しかし、彼女がひときわ大きくもんどり打ったのを最後に――部屋は、急に水を打ったような静寂に包まれ、ぴたりと、ミキの身体が動かなくなったのだ。
「おい……おい、ミキ? どうしたんだよ。なあ、おい……冗談だろ?」
恐る恐る、彼女の顔を覗き込む。
ミキの目は完全に瞳孔が開いたまま、どこか遠くを見つめて静止していた。
胸元に耳を近づける。……上下するはずの胸の動きはなく、呼吸の音は、どこからも聞こえなかった。
「なにが、何が起こったんだ、なあ!嘘だろミキ!」
俺は半狂乱になりながら、彼女の冷たくなり始めた肩を激しく揺さぶる。しかし、どんなに叫んでも、どんなに揺すっても、愛しい彼女からの反応は一切返ってこない。
病……、いや、何かの突発的な発作なのか。
一体、彼女が何をしたというのだ。
静まり返った部屋の中で、俺は冷たくなった彼女を抱きしめ、答えのない問いをただ反芻することしかできなかった。
※この小説を面白いと感じていただけましたら、★★★★★の評価とブックマークで応援お願いします。




