第40話 12月17日 トウヤ
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カッ、と脳髄の裏側を直接焼くような光に網膜が晒され、次の瞬間、俺の視界に飛び込んできたのは、神話という名の最悪の現実だった。
俺が立っていた岩肌のプラットフォームは、まるで巨大な生き物の臓物を引きずり出してぶち撒けたかのような、赤黒く粘ついたグロテスクな肉塊の床へと変貌していた。そしてその真横、一段下がった場所に敷かれていたはずの線路は消え失せ、そこには目を開けていることすら拒絶したくなるような、ドロドロとした血と膿の濁流が、凄まじい悪臭を放ちながら不気味に渦巻く大河となっていた。
さらに、その這い回るような泥濘の川底で蠢いていたのは……数え切れないほどの、無数の黒い蠍の群れだった。
(この世の、終わりだ……)
脳の思考回路が完全に麻痺し、素直に、ただそう思った。畏怖すら通り越して、自分の存在の小ささを叩きつけられたような絶望。
『……素晴らしい。私にも、完全に視認できたよ! 本来受けるべき生贄を引きずり込めなかったが故に、均衡が崩れ、神の怒りに触れたか……!』
スピーカー越しに、恐怖と言うよりは歓喜と興奮に打ち震えるかのような、この世で最も場違いな教授の絶叫が響く。
『トウヤ君!? 何が、何が見えてるの!?』
『トウヤさん、どうなってるんです、何が起きてるんですか!!』
地上に残るハルとソウジ君の悲鳴のような叫びが、スピーカーから微かに聞こえる。だが、今の俺にはそれを詳細に説明する余裕など、一ミリも残されていなかった。
「教授、ど、どどうすれば……! これ、どうしたらいいんですか……っ!」
腰が砕け、恐怖のあまり喉が引き攣って、上手く言葉が紡げない。
『正直、これは私のシミュレーションの枠を完全に超えた想定外の事態だ!これでは境界線がさらに曖昧になり、現実を侵食し、私もろとも現世が飲み込まれてしまうかもしれないね……!』
危機的な言葉を口にしているというのに、教授の声には、恐怖と異常なまでの好奇心が綯い交ぜになった異様な興奮が張り付いていた。
正直、彼から危機感や切迫感なんてものは、今この瞬間も一切感じられない。
それを証明するかのように、スピーカーからは『カシャ、カシャ』と、信じられないことに一眼レフのシャッターを狂ったように切り続ける連続音が響いていた。
俺はもう、狂いそうなこの状況から一秒でも早く抜け出したい一心で、喉がちぎれるほどの声を張り上げた。
「か、神だか、ああ、あ悪魔だかなんだか、知らないが……何でもいいから門を閉じてくれ!この川を止めてくれ!お願いだ、頼むから……!!」
俺の悲痛な懇願をあざ笑うかのように、この世の終わりのような大河は、汚らしい膿の飛沫をあたりに撒き散らしながら、滔々と流れ続けている。流れ着くその暗黒の先は、きっと二度と這い上がれないあの世なのだろう。
そこまで言い切った、まさにその時。また、あのねっとりとした生ぬるい気配が、一激の突風となって俺の全方位を取り囲み――。
「いっ……!」
目に見えないその悍ましい気配に直接足を払われ、俺は臓物の床へと無様に尻もちを付いてしまった。その、瞬間だった。
カサカサカサカサカサカサカサカサ――ッ!!!
硬い殻が擦れ合うおぞましい金属音が爆発的に膨れ上がり、川の中から無数の蠍どもが津波のように這い上がってきて、俺の体へと一斉に群がってきたのだ。
「ひぃ、ひぃぃぃ!来るな、来るなぁぁ!」
『トウ……くん……き、聞こえ……』
スピーカーから聞こえていたハルの声に激しい砂嵐のようなノイズが混ざり、ブツリ、と何も聞こえなくなってしまった。世界のすべてから切り離されたという事実が、俺の精神をさらに極限まで疲弊させ、追い詰める。
肌を這い回る蠍の群れの感触と、絡みつく生ぬるい気配。そして同時に、尻もちをついた俺の両足を、冷たい見えない無数の『何か』がガシッと掴み、暗闇の川の底へと力ずくで引きずり込もうとする猛烈な引力が襲った。
「ちっ、くしょう……!」
現世に俺を繋ぎ止めようとする物理的な腰のロープの張力と、冥界へと俺を捕まえ、引きずり込もうとする足元の不気味な力。
引き裂かれるような激痛と、全身を埋め尽くしていく蠍に、俺の精神は完全に崩壊の限界へと達していた。もう駄目だ。ミキのところへ行くんだ。諦めが脳を支配しかけた、その時。
――パリンッ!!!
突如として、俺の足元で、硬いガラスか何かが激しく粉砕される音が響いた気がした。
驚くべきことに、俺の体に群がっていた蠍どもが一斉に動きを止め、次第に俺から離れて、その音がした方向へと一斉に踵を返して蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていったのだ。
「えっ……うっ……おぇ、げぇ……っ!」
直後、鼻の奥の粘膜を直接焼くような、強烈な腐敗臭――強酸と生ゴミを混ぜて濃縮したような、凄まじい匂いが空間に充満した。
「富永君、今だ!!躊躇うな、こちらへ這い上がって来い!!」
スピーカーの機械的な音声からではない。今度は、すぐ近くの頭上から、直接耳に響く地声だった。
俺は涙と胃液でぐしゃぐしゃになった顔をなんとかして上げ、後ろを振り向いた。
そこには、登山用ロープを両手に血が滲むほどの力で巻き付け、額に凄まじい青筋を立てて踏ん張っている教授の姿があった。
だが、蠍が離れたとはいえ、俺の足を掴んでいる「見えない何か」の力は依然として強力で、俺の身体をズブズブと暗闇の深淵へ引きずり込み続けている。
「このままでは、君ごと完全に引きずり込まれてしまうぞ!富永君、君はここで死んで良いのか!恐怖に呑まれるな、気を確かに持て!!」
初めて見た。あの、いつも冷徹で人を小馬鹿にしていたはずの男が、完璧に計算された仮面をかなぐり捨て、感情を剥き出しにして狂ったように叫んでいた。彼は、自分の命の危険も顧みず、ただ必死の形相で命綱を引っ張り続けていたのだ。
ここで、終わりたくない。
あんな化け物どもの餌になって、たった一つの命を、ミキとの思い出を、ここで完全に無にされてたまるか。絶対に、生きて帰る……っ!
「うおぉぉぉぉ!!」
俺は叫び、臓物の床に爪を立てて這いずりながら、腰のロープを自らの両手で掴み、必死に手繰り寄せた。
その刹那。
全身を支配していた生ぬるい吐き気を催す怪異の感覚から一転して、驚くほどに温かく、優しい感覚が、俺の胸の奥へと一気に流れ込んできた。
それは、懐かしい香りと、ぬくもり。
(……ああ。ミキ……。そっか、わかったよ。俺、帰るから)
「うあぁぁぁぁあああ!!!」
涙が溢れ出ると同時に、俺は人生で最期の、文字通り火事場の馬鹿力を込めて、ロープを全力で引き絞った。
パァン――ッ!!!
空間のすべてが、限界を迎えたガラスのように一斉に弾け飛ぶ感覚。
俺は強烈な衝撃に、思わず強く目を閉じた。
◇
静寂。
耳元を劈いていたあの濁流の音も、蠍の這う羽音も、すべてが嘘のように消え去っていた。
手のひらに感じる、ひんやりとした、ザラザラとしたコンクリートの感触。
(……岩?)
俺は恐る恐る、張り付いた瞼を開けた。
(……プラットフォーム。……と、教授……)
目に飛び込んできたのは、工事途中の地下通路のコンクリートの床だった。そして、ロープを握りしめたまま、激しく呼吸を乱してうつ伏せで倒れ込んでいる教授が居た。
ライトの光が、いつもの白い現世の光となって周囲を照らしている。
帰ってこられた。俺たちは、あの地獄から、無事に戻ってきたのだ。
「はぁ、はぁ……、よかった……」
安堵の溜め息を漏らし、のそ、と四つん這いになって立ち上がろうとした。だが。
「いっ……!?」
バランスを崩し、盛大に横転してコンクリートの床に強く身体を打ち付けた。上手く足に力が入らない。身体の感覚が完全に戻っていないのだろうか。
いや、何かが決定的におかしい。
妙な違和感に襲われ、俺は恐怖に震えながら、自分の足元へと視線を下ろした。
(……無い)
息が止まった。
俺の、左足が。
俺の左足が、膝から下が、丸ごと綺麗に消失していたのだ。
痛みは無い。
驚くべきことに、断面からは血の一滴すらも流れていない。
ただ、そこにあるはずの肉体が、最初から存在しなかったかのように空間ごと消え失せている。
在ったものが、根本から無くなったという圧倒的な喪失感の恐怖だけが、静まり返った地下通路の中で、俺の心臓を激しく叩き始めた。
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