第39話 12月17日 トウヤ
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日下部教授が手にした、強力なフラッシュライトの鋭い白い光が暗闇を切り裂き、あたりを不気味に照らし出した。
錆びついた金属製のステップを一段ずつ降りた先は、あの日、俺がミキと見たあの空間と、見た目的には何一つ変わっていなかった。
コンクリート製の現代的なプラットフォームと、その脇を無機質に並んで通る鉄路。そしてその奥には、掘りかけのままで露出した荒々しい岩肌が続いている。
「ほう……ここが」
背後で教授が、鼻息を荒くして興奮を隠しきれない様子で独りごちた。この状況で、この人は恐怖よりも知的好奇心が勝っているらしい。
「あー、あー、地上、聞こえるかね?」
教授がマイクテストと言わんばかりに通信状態を確認するように話すと、音量をスピーカーにして胸ポケットに突っ込んである俺のスマホから、微かなノイズと共に声が返ってきた。
『はい! 聞こえます!』
『バッチリです!』
ハルとソウジ君の声だ。地上からのふたつの声が、暗闇の冷気に凍りつきそうだった俺の心を、かろうじて現世の側に繋ぎ止めてくれる。
教授は手際よく、金属製のステップの太い手すりに登山用ロープを幾重にも頑丈に括り付け、中身の詰まった重そうなダッフルバッグをガチャンと金属音を立てて足元へ置いた。
そのロープの先は、俺の腰へと強固に繋がっている。
「富永君。ここが、生者と死者を隔てる此岸の境界だ。……覚悟はいいかね」
教授はクイ、と右手の人差し指の第ニ関節で眼鏡のブリッジを押し上げた。その、いつもの独特なクセの動きがいつもより少しだけ速い。それが、彼なりの張り詰めた緊張感を表しているようだった。
「……はい」
「ここから先は、私にとっても完全に未経験の領域だ。どのような事態が起きるか想像の埒外だ。……何かあれば、些細な変化でもすぐに口に出して言い給え」
『トウヤ君、私たちも居るからね!』
スマホのスピーカーから聞こえたハルの必死な声が、俺の震える背中をそっと押してくれた。
俺はゆっくりと、光の届かない暗闇の奥へと歩き出す。
コツ、コツ、という俺のスニーカーの足音だけが、天井の低い空間にやけに大きく響き渡る。
数メートルほど進んだ所で、俺はすぅ、と冷たい地下の空気を大きく胸に吸い込み、すべての決意と共にそれを吐き出した。
「……ミキを、返せ!!」
俺の怒号は、遮るもののない地下通路へ盛大に反響し、幾重にもこだましながら次第に闇の奥へと消えていった。
直後に訪れたのは、耳が痛くなるほどの圧倒的な静寂。
そして――。
ピチャリ。ピチャリ。
どこからか、あの忌まわしい水音が聞こえ始めた。
はっとして自分の足元にフラッシュライトの光を向けると、やはりあの日と同じ、透き通っているのにどこか泥臭い、ヒヤリとした水がいつの間にか俺の足元を濡らしていた。
『どうだね、富永君。何か変化はあったか』
胸ポケットのスマホから、教授の冷静な声が聞こえる。
「水が……。水がどこからか、溢れてきています。靴の底を浸すくらいに」
『上々だ。振り返らず、そのまま真っ直ぐ奥へ進み給え』
いつもの冷徹な調子で指示を出す教授だったが、俺の心中はすでに極限の恐怖で狂いそうだった。今すぐにでも踵を返し、ロープを引っ張って地上へ逃げ出したいという本能的な衝動が脳内で暴れ回る。
だが、今ここで逃げたところで、俺もミキとマサキのように、謎の死を迎えるだけだろう。
震えて笑う足を、意志の力だけで無理やり一歩ずつ、一歩ずつ前へ進める。
ピチャピチャという水音は、進むにつれて次第に音量を増し、やがて俺の鼓膜を内側から直接叩くかのような、音に変わりつつあった。
(これが……これと同じ音が、ミキにも聞こえていたのか……)
舗装されたコンクリートの道が途切れ、ゴツゴツとした未知の岩肌に足が差し掛かった、まさにその瞬間だった。
教授が後ろから照らしてくれていたはずのライトの光が完全に掻き消え、周囲は文字通り、この世のどこの暗闇よりも深い「光の一切存在しない空間」へと変貌した。
「怖い……」
俺の意志とは関係なく、本音の言葉が口から漏れていた。
視覚を完全に奪われ、自分が今、前に歩いているのか、それとも宙に浮いているのかさえ判別がつかなくなる。
(怖い……死にたくない……。でも、振り返っちゃだめだ。絶対に後ろを見ちゃだめだ……!)
感覚が麻痺し、自分が立っているのか、あるいは冷たい床に寝転んでいるのかさえ分からなくなって視界が激しく明滅する。しかし、そんな五感の崩壊の最中でも、スマホから途切れ途切れに聞こえる『トウヤ君……!』というハルの悲鳴や、『あああ、神よ……、居るならなんとかしてくれ……』というソウジ君の祈り、そして『富永君、現世を意識しろ! 気をしっかり持ちなさい!』という教授の鋭い声、そして何より腰にがっしりと括り付けられたロープの、後ろからググッと引っ張られる力強い緊張感だけが、俺を「富永柊弥」としてこの世に繋ぎ止めてくれていた。
だが、その均衡を破る決定的な瞬間は不意に訪れた。
ゾクッ、と身体の芯が冷たくなり、まるで強烈な重力に引きずり込まれるように、暗闇のさらに奥、深い深淵の底へと身体が強引に吸い込まれていく感覚が襲った。進んでいるのか、落ちているのか、それすらもわからない。
本能が、脳裏で最大級の警鐘を鳴らし続ける。このまま奥へ連れ込まれてしまえば、二度と戻ることはできない、命はない、と。
「……吸い込まれています。何かに、引っ張られてる……多分」
恐怖のあまり感情のメーターが振り切れてしまったのか、そんな最悪の内心とは裏腹に、俺の口から発せられた言葉はやけに冷徹で、落ち着いたものだった。
『こちらのロープも、今急激に強く引っ張られている感覚を確認した。富永君、視覚的な変化は? 君からは今、何が見える?』
教授の早口な声に、俺は必死にあたりを見回そうとする。だが、網膜には何も映らない。
「何も、見えません。ただの……完全な真っ暗闇です」
『そうか、何か視認することができれば手がかりになると思ったのだがね……。完全な暗闇か。こちらからもライトで君の背中を照らし続けているが、光が途中で霧のように吸い込まれて、そちらには届いていないようだ』
暗闇が持つ不気味な引力は、秒単位でだんだんと強くなっていく。それと同時に、俺は肌を刺すある異変に気づいた。
氷のようだった冷気の中に、突如として、生暖かく、粘り気のある、ひどく気持ち悪い気配が、俺の周りをぬめりと漂い始めた気がしたのだ。
「……何かが、いる。周りに、何かがたくさん……いる……っ?」
『――遂に、お出ましか……!』
胸ポケットの向こうで、教授の声が歓喜に震えたのが分かった。
だが、現当事者である俺にとっては、それは生理的な恐怖の塊をそのまま喉の奥へ無理やり押し込まれたかのような、凄まじい圧迫感だった。胸が締め付けられ、胃袋がひっくり返りそうになる。
「お、おえぁ……っ、げほっ……!」
その圧倒的な不快感と気持ち悪さに、思わず激しくえづく。
ゴォォォォォォ、と。
空間全体、いや、脳髄を直接揺るがすような、巨大な獣が咆哮するような轟音が響き渡った、まさにその刹那。
真っ暗で何も見えなかったはずの俺の視界が、爆発的な光と共に、唐突に開けた。
だが、そこに広がっていた光景は――。
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