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此岸の境界  作者: 邑沢 迅
1章

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第3話 11月25日 トウヤ

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 あの肝試しから数日が経った。


 特に何事もなく、いつもの平穏な日常が流れていた。

 ミキはあの夜以来、心霊スポットへの興味を一切失っていた。


 あの燃え上がるような熱意はどこへやら、本当に飽き性な彼女らしい。所詮は一時的な好奇心だったのだろうし、そもそも彼女にオカルト趣味があるわけでもない。いつもの調子に戻ってくれて、俺としては正直ホッとしていた。


 大学の講義が終わり、俺とミキは相変わらず、あの駅近くのカフェで次のデートの作戦会議を行っていた。

 窓際の席、西日が差し込む店内で、ミキは身振り手振りを交えながら楽しそうに喋っている。


「――でね、ハルったら、日下部教授を怒らせちゃって。レポートの提出期限、一日間違えてたみたいでさ……」


「ハハ、あいつらしいな。で、どうなったんだ?」


 俺がアイスコーヒーのグラスに手を伸ばそうとした、その時だった。ミキがピタリと言葉を止め、怪訝そうに辺りを見回した。


「……ん?」


「どうした?」


「何か、聞こえなかった?」


 ミキは少し眉をひそめ、耳を澄ますような仕草をする。


「何かって?」


 そう言われ、俺も一度口を閉じて耳を澄ましてみる。

 だが、聞こえてくるのは、カトラリーが触れ合う音や周囲の客たちの話し声といった店内の喧騒、それからスピーカーから流れるBGMの、流行りのJ-POPぐらいだ。

 確か、ダウナーな雰囲気のパーマをかけた男が、ゲロだのなんだの言って、なぜか巷で大流行している曲だったか。

 音楽に疎い俺には、興味がないので曲名などはわからない。


「知ってる、この曲」


「ん……気の所為かな」


 ミキは小さく首を傾げた。その快活な表情を一瞬だけ少し曇らせたが、所詮はその程度だったらしい。

 すぐにいつもの明るい笑顔に戻ると、俺の顔を覗き込んできた。


「私のアイラブユーは、トウヤに噴き出てるけどね」


「なんだよ、それ」


 思わず吹き出しそうになった。

 次の瞬間にはいつものように不意に惚気てくる。油断ならない彼女だ。


 あの地下通路の不気味な空気のせいで、ミキも神経質になっているのかもしれない。『まあ俺にも幻聴の一つや二つあるよ』とフォローしようかとも思ったが、残念ながら俺にそんな経験は無かった。


「でね、次の休みなんだけど、どこ行こっか」


 ミキは楽しそうに微笑み、邪魔そうな髪を左手でさらりと耳に掛けた。

 その瞬間。露わになった彼女の白い首元に、異質なものが視界に飛び込んできた。


 何やら痣のような、赤黒さを孕んだ紫色の痕が見えたのだ。


「ミキ、それ、なんだ?」


 楽しげな会話の腰を折る形になってしまったが、どうしても目が離せなかった。俺はテーブル越しに身を乗り出し、その痣に向けてゆっくりと指を這わせる。


「やだな、人前だよ?」


 ミキは少し顔を赤らめて身を引こうとしたが、俺の指先がその痕に触れる。

 傷……いや、内出血か?

 何か、鞭か何かで鋭く殴打されたような、細長く歪な形。それに、妙に肌に馴染んでいるというか、真新しいものではないような感覚を覚える。ずっとそこにあったかのような、悍ましい違和感。


 先週も、彼女の肌は嫌というほど見ている。だが、こんな不気味なものは絶対に無かったはずだ。


 俺の真剣な観察と、ただならぬ視線に、ミキもようやく事の異変を察したのか、表情を固くした。


「……トウヤ?」


「そこに、痣があるんだ」


 俺の指摘に、彼女は少し動揺した様子でバッグを漁り、小さな手鏡を取り出した。

 鏡の角度を調整し、自分の首元を覗き込む。


「やだ、なにこれ……」


 鏡に映る紫色の痕を見て、ミキの顔からさっと血の気が引いていくのが分かった。

 完全に、彼女自身にも全く見覚えがないものらしい。


「痛くないか?」


「んー……全然。触っても何ともないよ」


 そう言いながら、自分の指先で首元を確かめるミキ。だが、その異様な痣を自らの目から遠ざけ、俺からも隠すかのように、すぐに髪を再度さらりと下ろして痕を覆い隠してしまった。


「何かにぶつけたのかな。……家でちゃんと見てみるよ」


「そうだな。無理するなよ」


 そうして、彼女と俺は、何事もなかったかのように週末の予定の相談へと戻ったのだった。


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