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此岸の境界  作者: 邑沢 迅
1章

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第2話 11月21日 トウヤ

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「ここ、だよね」


 ミキが俺の腕をきゅっと抱きしめながら、恐る恐る言った。


 俺たちの目の前にあるのは、街中の地上にひょっこりと頭を出している、地下鉄の連絡通路へと続く扉だ。

 深夜の街灯に照らされたその扉の真ん中には、赤字で無機質に書かれたプレートがあった。


『関係者以外立入禁止』


 その文字が、やけに鋭く俺の目に刺さる。

 当たり前だ、やっぱりこれはどう見ても不法侵入だ。

 引き返すなら今だ、と理性が囁くが、隣のミキの横顔を見ると言い出せなくなる。


 ただ、実際の扉はあくまで現代的な金属製で、とても心霊スポットなどとは程遠い佇まいだった。

 おどろおどろしい装飾があるわけでもない。ただ、周囲の薄暗い雰囲気がそれとなく不穏な空気を醸し出している、それだけだった。


「開ける、ね」


 ミキがごくりと息を呑み、ドアノブにそっと手をかける。そして、ゆっくりとひねった。

カチャリ、と軽い金属音が響く。

 てっきり鍵がかかっているものとばかり思っていたが、扉はいとも簡単に開いてしまった。


 その先に広がっていたのは、深い闇へと続く階段だった。

 外の街灯の光すら吸い込まれていくような暗がりに、俺たちは顔を見合わせ、どちらからともなくスマホのライトをONにした。

 細い光の束が、埃の舞う階段を頼りなく照らし出す。


 一歩、中に足を踏み入れる。


「……寒っ」


 思わず声が漏れた。

 晩秋とはいえ、地下の中は尋常ではないほど冷え切っている。コンクリートの壁が冷気を発しているかのようだ。

 こんなことなら、もっと厚手のダウンジャケットでも着てくればよかったと激しく後悔する。


 匂いも独特だった。

 長い間換気されていないような、湿気ているような、埃っぽいような、鼻の奥がムズムズするような香り。


 カン、カン。


 階段を一段降りる度に、金属製のステップが硬く乾いた音を立てて闇に響く。

 腕に絡みつくミキの手に、どんどん力がこもっていくのが分かった。

 それと同時に、俺の腕に押し当てられた彼女の胸のあたりから、ドクン、ドクンと早鐘を打つ心音が大きくなっていくのが伝わってくる。


 カフェでの強気はどこへやら、恐怖心と好奇心が激しくせめぎ合っているミキの横顔。

 緊迫した空気に胃が痛む思いだったが、そんな彼女の様子を見ていると、少しいたずらをしたい気持ちが頭をもたげた。

 少し意地悪に、彼女の恐怖心を煽るかのように声をかけてみる。


「怖いのか?」


「べっ……別に……っ」


 強がってはいるものの、声が明らかに震えている。

 完全にこの地下の空気に飲まれつつあるようだ。ほら見ろ、だから言わんこっちゃない。


 そう心の中で毒づいた、その時だった。


 キキキィ……ッ!


「ヒィ!」


 頭上から響いた小さく金切り声に似た鳴き声に、ミキが短い悲鳴を上げて俺にしがみつく。

 すさまじい速度で、いくつかの黒い影が俺たちの頭上をかすめて通り過ぎていった。


「……ただのコウモリだよ」


 バタバタと闇の奥へ消えていく影を見送りながら、俺は荒くなった息を整えた。

しかし、コウモリがいるということは、この先がどこか別の場所につながっているのだろうか。それとも、ただここに閉じ込められただけなのだろうか。


 やがて俺たちは階段を降り切り、開けた場所へとたどり着いた。

 そこは、よくある駅のプラットフォームらしき場所だった。

 だが、ライトを向けてみると、そこは少し不思議というか、奇妙な空間だった。


 手前側は綺麗に舗装されたコンクリートのプラットフォームと、その脇を走る線路。

 だが、スマホの光をその奥へと向けると、途中からごつごつとした岩肌が剥き出しになっていたのだ。明らかに、工事が途中で打ち切られたような、不自然な終わり方をしている。


「なに、ここ……」


 ミキが呆然とした声を出す。


「さあな。予算の関係とかじゃないか?」


 空間が予想以上に巨大なため、スマホの小さなライトでは全く光量が足りず、心もとない。こんな場所だと分かっていれば、強力なフラッシュライトでも持ってくるべきだった。


 とりあえず、舗装されたプラットフォームをさらに奥へと進んでいく。


 コツ、コツ。


 静寂の中に、俺たちの靴音だけが異様に大きく響く。

 そして、それにかき消されそうなほど小さな、ミキの少しだけ上ずったハァ、ハァという荒い呼吸音。


「さ、もういいだろ。帰ろう」


 所詮、心霊スポットなんてこの程度だ。

 暗くて、不穏で、それでいて誰かが『噂』というスパイスをふりかけただけの、どこにでもあるありふれた空間。不思議な何かが起きるわけじゃない。


 俺が踵を返し、今来た階段へと戻ろうとした、その刹那だった。


「こんばんは!」


 突如、ミキが大声で叫んだ。


「おい……ミキ、やめろよ」


 心臓が跳ね上がる。

 さっきまであれほど怯えていたくせに、急に平静を取り戻したとでもいうのか。

 唐突な彼女の『こんばんは』という声は、がらんどうの不気味なトンネルの中に何度も反響し、やがて吸い込まれるように消えていった。


 数瞬後、完全な静寂が再びこのプラットフォームを包み込む。

 心霊現象を信じていない俺でも、さすがに背筋に冷たいものが走った。


「誰も居ないみたいだね。やっぱり、オカルトだよね」


 あっけらかんと言うミキ。


 だが。

 静まり返った空間に、俺たち以外の音が、もう一つ混ざっていることに気づく。


 ぴちゃり、ぴちゃり。


 冷たい水の音が、足元から聞こえた。


「うわぁ……!」


 ミキが短く悲鳴を上げて飛び退く。

 スマホのライトを向けると、コンクリートの壁の隙間から染み出した水が、じわじわとミキの足元へと広がっていくところだった。

 先程までは何も無かった気がしたが……いや、暗くて単に気づかなかっただけだろうか。


「もう……靴がびちゃびちゃじゃん……」


 ミキは泣きそうな顔で自分の足元を見つめている。


「もういいだろ、帰ろう」


 今度こそ強い口調で言うと、ミキは素直にコクコクと頷いた。


「わかった……もうやだ、帰る」


 すっかり戦意喪失したミキの手を引き、俺たちは地上への階段を急ぎ足で引き返した。

 重い扉を開けて外に出たとき、深夜の新鮮な空気が妙に心地よく感じられた。


 俺たちはそれから特に言葉を交わすこともなく、互いの温もりを確かめるように小さく手を振り返し、それぞれの帰路へとついたのだった。


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