第29話 12月14日 トウヤ
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硬いサスペンションに揺られること、数時間。
車内を満たす濃密な沈黙にどうしても耐えきれなくなり、俺は思い切って切り出した。
「あの……ラジオ、付けていいですか」
「好きにし給え」
教授の返答は素っ気なかったが、思いの外、寛容な内容だった。
ボリュームのつまみを回すと、スピーカーから流れてきたのは、B駅近くで聴いた、ダウナーな雰囲気のパーマ頭の男の声だった。
今にも宇宙の彼方に飛び出していくようなサビの所。スピード感があってなかなかいい曲だなぁと、俺は助手席の窓に頬杖を付きながらぼんやりと聴いていた。すると、カチカチとウィンカーを鳴らしながら教授が不意に口を開いた。
「具体的な情景描写と抽象的な象徴を組み合わせることで、メッセージの意味を一つに限定しない詩的構造になっている。聴き手は歌詞の余白に自身の経験や感情を自然に投影でき、結果として各々で異なる多面的な解釈が成立するわけだ。……人気なのかね?」
てっきり流行り物なんて頭から否定するか、くだらないと切り捨てるかどちらかだと思っていた。それなのに、驚くほど客観的かつ的確な楽曲分析をしてみせるものだから、俺はすこし呆気に取られてしまった。先入観だけで人を判断するのは良くないな、と反省する。
「いや、俺もあまり音楽には詳しくないですが……。かなり人気みたいです」
教授はそれに対して深く追及することもなく、「ほう」と短く言ってそのまままた黙ってしまった。
音楽だの娯楽だのには一切興味なさそうに見える男だが、彼なりに「良い構造を持つものは良い」と、すんなり受け入れられるフラットな思考の持ち主なのかもしれない。
◇
高速道路を降り、細い悪路をどんどんと山奥へ向かって入っていった車は、いくつかのアスファルトの割れた寂れた集落を抜けた。そして、鬱蒼とした森の奥にある、巨大な錆びた建造物の前で、教授は静かにエンジンを止めた。
「ここは……?」
車外に出ると、ピリッとした山の冷気が肌を刺した。俺の問いに、教授は運転席のドアを閉めながら言った。
「廃坑だ。1950年頃から石灰石を精力的に採掘し、1990年頃に完全に閉山している。坑内採掘自体は、1970年代にすでに終了している」
「廃坑……」
見上げるコンクリートの遺構は、ひび割れてツタが絡まり、まるで巨大な墓標のようだった。
「地質的な採掘効率が落ちたことに伴う、採算性の低下が一般的な閉山の原因だと言われているがね。……実際は異なる」
「まさか」
「そう、そのまさかだよ」
教授は不敵に微笑んだ。
今はまだ昼過ぎだと言うのに、生い茂る木々のせいで妙に鬱蒼としていて薄暗いその場所が、彼の言葉ひとつで、なにか急に恐ろしい呪われた場所に感じられて仕方がなかった。身震いしていると、背後から嗄れた声がした。
「おや……。このような寂れた山奥に、珍しいお客さんだねぇ」
心臓が跳ね上がる。
驚いて振り返ると、そこにはいつの間にか、腰の曲がった一人の老婆が古びた鎌を手に立っていた。近所の住民だろうか。
「観光……にしては、妙な組み合わせだねぇ。何をしにきたんだい」
白濁した目で、訝しげに俺たちの服装や顔をじろじろと観察する老婆。その不穏な警戒心を解くかのように、おもむろに近づいて愛想よく挨拶をする教授。
「ご老人、こんにちは。ご心配無く、我々は決して怪しいものではありませんよ。……私はこういう者です」
怪しげにすっと距離を詰め、上着のポケットから名刺ケースを取り出して名刺を渡す教授。それを受け取り、手元の文字に目を落とした老婆は、さらに顔の皺を深くして訝しげに言った。
「大学の……教授先生が、こんな若い子を連れて、ここに何の用かね。ここには何もありゃしないよ」
「実はですね。我々は『事戸渡事件』について調査を――」
教授がその単語を最後まで言い切る前に、事態は急変した。
老婆はカッと目を見開き、手に持ったばかりの名刺を地面へと激しく叩きつけると、裂けるような大声を張り上げた。
「帰れ!!」
一瞬にして鬼気迫る狂気の表情に変わり、鋭い眼光で教授を睨みつける老婆。
そのあまりに激しい拒絶の声は、静まり返った山々に何度も不気味に反響し、やがて消えていった。
「落ち着い――」
「話すことは、何もない!」
取り付く島もないとは、まさにこのことだった。
彼女のその尋常ではない怯えと怒りの混ざった口ぶりからして、教授が口にした『事件』という言葉は、この地域において今なお触れてはならない腫れ物として扱われているような印象を受ける。これ以上突っつくのは、あからさまに不味い。
俺は現場を支配する張り詰めた空気に耐えきれなくなり、教授のダウンジャケットの袖を引いて声をかける。
「教授、もう止めましょう。怒ってますよ。帰りましょう」
教授はす、と右手を挙げて俺の言葉を無言で静止すると、こちらの焦りなどどこ吹く風で、性懲りもなくさらに踏み込んだ言葉を口にした。
「あなたは……あの事件のご遺族、ですね。……ご愁傷さまです」
「……」
老婆の身体が、一瞬ビクリと硬直した。
「我々はあの忌まわしい事件の足跡を追っておりましてね。事実を白日のもとにするために活動しております」
「……」
「できれば、少々お時間を頂戴して、当時の詳しいお話を伺うことはできませんでしょうか」
言葉尻こそ丁寧で柔らかかったが、教授のその滑らかな言葉には、目の前の遺族に対する気遣いや同情というものが、微塵も感じられなかった。
顔に張り付いた笑顔。嘘と虚飾だけで構成されたその口上。
俺はこの数週間の付き合いで、すでに知っている。この日下部という男には、常人が持つような暖かな「人の心」など存在しないのだ。
あるのは、ただ目の前の謎を解き明かしたいという、底知れない、冷酷なまでの『好奇心』だけだ。
ザァ、と木々が風に揺れる音だけが響く。
長い、長い、息の詰まるような沈黙が俺たちを包み込んだ。
そうして、教授の放つ異様なプレッシャーに耐えかねたのか、それとも諦めたのか、遂に老婆が深く、低く呟いた。
「……ついてきな」
老婆は足元の教授の名刺を拾うこともなく、ゆっくりと踵を返して、藪の奥へと続く細い獣道へと歩き始めた。教授は名刺を拾い上げ、事もなげにポケットへと仕舞った。
教授は視線で『どうかね』とも言いたげに俺に合図したが、強引なそのやり口には閉口する他ない。
そうして俺達は、老婆の背中を追うように、薄暗い森の奥へと足を踏み入れた。
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