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此岸の境界  作者: 邑沢 迅
5章

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第26話 12月11日 トウヤ

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 ハルから急な連絡を受け、俺は彼女が連れてきたサークルの後輩、ソウジ君と共に再び日下部教授の研究室へと訪れていた。


「私から連絡するまでは通常通りに過ごせと言ったはずだがね」


 最初に部屋に入ったとき、日下部教授は面倒くさそうに俺たちを突き放すような態度を取った。だが、ハルとソウジ君が必死の形相で語る『マサキ』という配信者の最期の話を聞いた瞬間、「……全員、そこに座り給え」と声のトーンを落とし、態度を180度変えた。

 本当に、この人は現金というか、知的好奇心だけで動いているのが見え見えで少し呆れてしまう。


 だが、俺も彼女たちが語るマサキの配信の内容を聞いていると、とても他人事とは思えなかった。耳の奥で響く水音。不自然に釣り上げられる身体。仔細は異なるが、それは間違いなく、ミキを襲ったあの理不尽な怪異と同質の『何か』だった。


「なるほど……そうか、なるほど……」


 日下部教授は、研究室をぐるぐると回りながら、顎に手を当ててブツブツと何かを呟いている。

 考え事をするときの、彼特有の悪癖なのだろうか。やがて、彼はピタリと足を止めると、俺たちの方へと勢いよく向き直った。


「『求めよ、さらば与えられん。捜せ、さすれば見いだすであろう』」


「……え?」


 急に何を言い出すのか。俺は思わず気の抜けた声を返してしまった。


「教授……?」


「私の好きな言葉だよ。努力が必ず報われる訳では無いが、君たちがもたらしたこの新たな成果は、大いに評価せねばなるまい」


 芝居がかった教授の行動や発言を目の当たりにして、隣のソウジ君は完全に引いていた。

 ハルに向かってヒソヒソと「あの、教授ってこんな人でしたっけ……」と困惑の声を漏らしている。

 教授はそんな俺たちを完全に置いてけぼりにして、一人で完全に自分の世界に入り込んでしまっていた。


「あの、何か……分かったんですか、先生」


 ハルが、その異様な熱気に圧されながらも、恐る恐る質問する。


「君たちが理解できうる話ではないかもしれないがね」


 相変わらず、こちらの神経をわざわざ逆撫でするような傲慢な前置きをしつつ、教授はホワイトボードマーカーを手に取り、キュキュ、とボードに大きな三つの円を描いて文字を書いた。その手際の良さは、嫌味なくらいに本職の教員だ。


 書かれた文字を、ソウジ君が怪訝そうに読み上げる。


「……地上、天界、冥界?」


「国や宗教、神話によってこの世界の定義や呼び名は曖昧だが、それをいちいち細かく補足していると、君たちの稚拙な理解力では何日かかるかわからない。まずはこのシンプルな三層構造で説明させてもらおう。我々が今生き、生活しているのが『地上』なのはわかるね?」


 コンコン、と地上と書かれた一番上の円を、教授はマーカーの背で小気味よく叩いた。


「はぁ……」


 ハルが、ついていけないといった様子で気の抜けた返事をする。


「今回、すべてのポイントとなるのは、ここだ」


 教授は、一番下の『冥界』と中層の『地上』の間に、赤いマーカーで一本の太い線を引いた。


「あっ……そうか。アケローン川、もしくは黄泉平坂のような……」


 隣で、ソウジ君がゴクリと息を呑み、真剣な声でよくわからない単語を呟いた。


「ほう、園田君。君はなかなか教養が在るようだね」


 日下部教授は、自分の意図を瞬時に察した優秀な学生を見つけたかのように、実に満足そうに目を細めた。

 一体なにが「なるほど」なのか。二人の間で何を「納得」し合っているのか。俺にはさっぱり分からない。俺とハルは、互いの顔を見合わせながら頭の上に巨大なハテナを飛ばし合っていた。


「神話や物語の中だけの話かと思ってたけど……現実に、そんな場所が……」


 ソウジ君は腕を組んで、深刻な顔で考え込み始めた。

 そうだ、ハルから聞いていたが、彼はこういうオカルトや都市伝説の素養があるのだった。


「現実は小説よりも奇なり、だよ、園田そのだ君。『無知な者は知恵をも諭しをも侮る』と言うだろう。火のない所に煙は立たないのだよ。噂やオカルトには、それ相応の事象、現象がある。知識が在るに越したことはない」


「あの、それが、ミキとマサキ、そして作業員7名の死に、一体何の関係があるんですか……?」


 二人のオカルト談義に耐えかねて、俺は遮るようにぽつりと言ってしまった。教授の落胆した顔が容易に想像できたが、理解できないままでは、ミキの死の真相は理解できない。聞かぬは一生の恥だ。

 案の定、日下部教授はマーカーを持った手を大袈裟にだらりと下げ、心底がっかりしたようにわざとらしい溜め息を吐いてみせた。


富永とみなが君、因果の骨組みを理解せずして、どうして本質が理解できるというのかね?……まあいい。冥界と地上の間には、『川』があるのは知っているね?」


「……はい」


 正直知らないが、また話が脱線してしまっても困る。

 ここは『はい』と答えておくのが一番の得策だろう。


「さっき園田君が挙げてくれたアケローン川や、君たち日本人に最も馴染みが深い三途の川だ」


 そう言いながら、教授はつらつらとホワイトボードの境界線の周りに恐ろしいスピードで文字を書き込んでいく。ボードはあっという間に異質な文字列で埋め尽くされていった。


『ステュクス』『コキュートス』『ギョル』『シンウェル』『ヴァイタラニー』『忘川』――。


 唯一、三途の川だけは意味が理解できるが、他は生まれて初めて聞く名前ばかりだ。


「古今東西、様々な神話には、現世とあの世を隔てる『川』が登場する。それは単なる古代人のイマジネーションの偶然の一致ではなく、現世とを隔てる境界として『確かに存在する』からだと私は理解している。まさに、君たちが目撃してきた一連の不可解な怪死事件が、それを証明しているのだよ」


 日下部教授は、赤いマーカーをホワイトボードに強く突き立てた。


「そして――その冥界の川は、度々、何らかの拍子にこの『現世』へと繋がることが在るのだよ。そう、あの、地下通路のようにね」


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