第22話 12月6日 ハル
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日下部教授は顔色一つ変えずに、淡々と語った。
『体内を流れるすべての血が、『膿』に変わっていた』と。
もし急にそんな話をされたなら、私は「あるわけがない」と一笑に付していただろう。医学的にも科学的にもあり得ない、質の悪いオカルトの与太話だと切り捨てていたはずだ。
そう――ミキのあの凄惨な最期を知らなければ。
「その……原因というのは、一体何なんですか……」
トウヤ君が、焦れったさを抑えきれない様子で、すがるように急かす声を上げる。
「落ち着き給え、富永君。私だって万能ではない、まだ何の確証も無いのだよ。まずは、君たちにも分かりやすいように、事実に一本の補助線を引いて整理しようじゃあないか」
教授はそう言うと、デスクから離れ、本棚に囲まれた研究室の中をゆっくりと、ぐるりと円を描くように歩きながら語り始めた。
「富永君。すべてのきっかけは、何だったかな」
発言を促すその独特な様は、まるで学校の先生が授業で生徒を指名しているかのようだった。
……いや、彼は紛れもなく大学の教員なのだけれど。この異常な事件と怪異の気配が満ちる妙な空気のせいで、彼が『教授』であることを、私は危うく失念しそうになっていた。
「地下鉄への……あの連絡通路への、侵入でしょうか」
トウヤ君が硬い声で答える。
「そうだね。前提条件としては十分だ。では萩原くん、その領域へ侵入した人間は、結果としてどうなるかね」
今度は私に視線が向けられる。私は喉を鳴らしながら、絞り出すように答えた。
「……不可解な、死を遂げます」
「正解だ。……だが、正確には『不正解』だ」
どういうことだろうか。
言葉の意味が分からず私が眉をひそめると、教授は歩みを止め、再びトウヤ君に鋭い視線を向けた。
「では、説明してくれたまえ。彼が、同じ場所へ足を踏み入れながら、今もこうして私の前で五体満足で生存している理由は?」
ハッと息を呑む。
そうだ。トウヤ君もミキと一緒に、あの夜、あそこに足を踏み入れたんだ。
でも、トウヤ君には不気味な幻聴も、それによる精神的な異常も、赤黒い痣の兆候すらも、現時点では一切見られていない。死んだミキと、生きているトウヤ君。その決定的な差はどこにある?
「考えられる可能性は二つ。皆川さんや2年前の作業員たちを死に至らしめた『何か』の種が、既に彼の中でも蠢いていて、単にまだ現出していないだけ。……あるいは、あの空間で『特定の行動』をしたこと自体が、引き金となったのか。富永君、彼女はあの場所で、君とは違う、何か特徴的なことはしていなかったかね」
自分の中に、今もあの悍ましい何かが潜んでいるかもしれない。教授の冷酷な指摘に、トウヤ君はあからさまに恐怖を滲ませ、すこし不安げな顔をして身を固くした。だが、彼はすこし天井を仰いで必死にあの夜の記憶を呼び起こすように逡巡した後、小さく息を吐き出した。
「……特段、思い当たるようなことは……何も……」
「ふむ……そうか」
教授はつまらなそうに目を細める。
「あ、いや……待ってください。ただ、ミキは途中で、急に大声を出しました。真っ暗な空間に向かって『こんばんは』って叫んだんです。……それと、その新聞記事にも書いてあった、湧き出ていた地下水。俺が帰ろうって言ったとき、あいつ、床に水が広がっているのに気付かずに、スニーカーを濡らしてました……」
その言葉が出た瞬間。
日下部教授の細い銀縁眼鏡の奥の目が、カッと見開かれたのを、私は見逃さなかった。空気が一瞬で凍りつくような、すさまじい知的好奇心の光。
「それが……何の関係があるんですか? 先生、何か分かったんですか!?」
私はすがりつくように尋ねた。
「……確定的、いや、まだピースが足りない。この事象の核心へアプローチを行う為には、何か別の角度からのデータが……」
教授は私の問いに答えることなく、片手を顎に当ててブツブツと独り言を呟き始めた。その言葉は私への返答であったのか、それともただ脳内の思考が制御しきれずに漏れ出ていただけなのか。
いずれにせよ、教授の頭の中には何か、はっきりとした『疑念』が生まれたようだった。
教授はふっといつもの穏やかで冷淡な表情に戻ると、デスクの書類をトントン、とまとめ直した。
「数日後、私から君たちに連絡しよう。それまでは、通常通り、大学へ来て授業を受け給え。悲劇の渦中にいるとはいえ、三年にもなって無駄に単位を落としたくはないだろう?」
さっきまで命の危機や怪異の話をしていたのに、急に現実的な、それもひどく世俗的な話を始めた教授に、私はもう苛立つことすらできなくなっていた。呆気にとられるとはこのことだ。
聞きたいこと、問い詰めたいことは山程あったが、今の私たちにはこれ以上の術はない。教授の頭脳に頼るしかないのだ。
私とトウヤ君は、重い腰を上げて椅子から席を立った。
「……ありがとうございました」
「その、調査のほど……よろしく、お願いします」
「ああ、夜道は暗い。二人とも気をつけて帰りなさい」
背後からかかる教授の静かな声を聞きながら、私たちは奇妙な疲弊感を抱えたまま、静まり返った夜の研究室を後にした。廊下に出ると、窓の外では相変わらず冷たい冬の風が不気味な音を立てて吹きすさんでいた。
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