第21話 12月6日 トウヤ
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カチャ。
カップをソーサーに戻す小さな音が、静かな研究室に響いた。
俺たちのカップの底が見え始めた頃、日下部教授は不意に立ち上がり、壁際にずらりと並ぶ巨大な本棚へと移動した。「確か、このあたりだったと思うが……」と独りごちながら、彼は迷いのない手つきで分厚い資料の背表紙を指先でなぞり、何やら探し始めた。
目的の何かを探し当てると、教授はおもむろにそれを引き抜き、俺たちの机の前へと無造作に広げた。
それは綺麗にファイリングされた真新しいバインダーと、その中に収められた、数枚の新聞記事の切り抜きだった。
俺とハルは息を呑み、同時に身を乗り出して、そこに並ぶ文字を食い入る様に読み込む。
その新聞記事の日付は、2年前の8月15日。記事の見出しには、黒々と太いフォントでこう書かれていた。
『B駅・延伸工事、無期限中断へ――予測不能の出水に見舞われ工事難航』
脳裏に、あの夜の冷たい地下通路の光景がフラッシュバックする。
これは、俺とミキが肝試しに行った、あの地下鉄の連絡通路の工事中断に関する記事だ。これが一体、ミキの不可解な死にどう関係しているというのだろうか。俺はバインダーから教授へと視線を戻し、胸の中に生じた純粋な疑問をそのまま口にした。
「教授、これは……」
「質問をする前に、まずはその自堕落な生活で萎縮しきった矮小な脳で、考察し給え」
教授は呆れたように肩をすくめ、はぁ、とわざとらしい溜め息を吐いてみせた。
隣のハルがプライドを傷つけられたようにムッとした雰囲気を醸し出したのが分かったが、確かに、安易に答えだけを聞こうとした俺に否がある。わざわざこのタイミングで、俺たちの目の前に広げられた資料だ。あの場所とミキの怪死には、絶対に何らかの関連性があるはずなのだ。
俺はもう一度記事を凝視する。だが、そこには「西岸鉄道が地下の延伸工事中に予測不能の地下水を掘り当ててしまい、出水対策が困難を極めたため工事を中断した」という旨が、極めて一般論的に書かれているだけだ。
そこで、俺の脳裏に一つの大きな違和感、そして疑念が湧き上がった。
「……おかしい。何故、2年も放置されたままなんだ?」
俺はハルへと視線をやる。ハルは自信なさげに眉をひそめた。
「工事の予算が、途中で尽きちゃった、とか……?」
「いや、それはない。西岸鉄道は都心にも乗り入れている、この辺りじゃ最大の主要な鉄道会社だ。これくらいで頓挫するとは思えない」
俺はポケットからスマホを取り出し、素早く『西岸鉄道 計画予算』で検索をかける。
画面に表示された直近の経済ニュースの文字を追う。
「……。『西岸鉄道、今期の沿線開発計画予算を大幅に上方修正』。つまり、資金難で工事を止めたという線は絶対に無い」
「だよね……。じゃあ、なんで……」
いや、待て。ミキの死因はあんなオカルトじみた、呪いのようなものだったんだ。予算だとか企業利益だとか、そんな現実的な線だけでこの異常事態を推理するべきではない。
2年以上もの間、大手企業が莫大な予算を投じた空間を『立入禁止』にして完全放置している理由。
これは教授なりの、俺たちへのヒントだ。だとするならば、導き出される答えは一つしかない。
「……この工事中断の裏には、ミキと同じような……別の犠牲者が、いるってことですか……?」
俺とハルは、弾かれたように教授の顔を見つめた。
教授の薄い唇の端が、少しだけ釣り上がった。
「正解だよ」
やっとか、と言わんばかりに大袈裟に両手を広げてみせる教授。その小馬鹿にしたような態度に、苛立ちを隠しきれないハルの気持ちが、今の俺には痛いほどによく分かった。だが、今は彼の言葉に縋るしかない。
すっかり真っ暗になった窓の外の虚空を見つめながら、教授はまるで教壇から学生を見下ろす講義のときのような、冷徹で滑らかな声で語り始めた。
「西岸鉄道の作業員が、地下の未踏領域でその『地下水』を掘り当ててしまったのが、2年前の8月11日。そして、不可解な工事中断の発表がその新聞記事の通り、わずか4日後の8月15日だ。そして、富永君の推測の通り――その唐突な発表の裏には、公になっていない犠牲者が存在するのだよ」
公になっていない、犠牲者。
その重々しい一言だけで、それが尋常の事柄ではないことが容易に理解できた。
「私も当時、あの地下通路の噂には引っかかる部分があってね。私的に調査を行ったのだが……驚いたことに、当時あの現場で直接工事に携わっていた下請け会社の作業員のうち、実に7名が、短期間のうちに相次いで不審死を遂げている」
「……っ」
ハルが短く、息を呑むような声にならない悲鳴を上げて、自分の口元を両手で覆った。
背筋に、氷水を直接流し込まれたかのような戦慄が走る。
「その……不審死、というのは……」
俺の問いかけに呼応するように、ドッ、ドッ、と胸の奥で心臓の音がうるさく脈動し始める。
だが、俺たちのそんな極限の心情とは裏腹に、日下部教授は感情を一切排除した声で、ただ事実のみを淡々と語り続けた。
「その7名の犠牲者全員に共通していた初期症状。それは、耳の奥で直接響く不可解な幻聴、そして、その幻聴を起因とする深刻な精神崩壊だ。そして、現代医学ではそのメカニズムを一切解明できないまま死に至るという結末。……ここまでは、君たちが話してくれた皆川さんのパターンと、完全に一致している」
「トウヤ君……」
ハルが怯えた目で俺の服の袖を掴む。
「ああ……間違いない」
ミキと同じだ。あの地下通路には、確実に人間を物理的に破壊する『何か』が巣食っている。
「だがね」
教授はそこで一度言葉を区切り、眼鏡のブリッジを中指でくい、と押し上げた。
「現代医学で解明できない、という点においては共通しているが、その7名は、今回の皆川さんのケースとは、決定的に、異なっているのだよ」
そこで初めて、教授の声色が変わった。
それまでの冷徹な観察者のトーンから、何か未知の難問に直面した学者のような、困惑と、あるいは深い思案の混ざり合った、どこか湿り気を帯びた声に。
「……と、仰いますと」
俺は生唾を飲み込み、教授の次の言葉を待った。
「富永君、君の証言では、皆川さんは最期、全身に浮かび上がる無数の痣、そして目に見えない何かに激しく殴打されるような痛みを訴えて死んだと言ったね」
「はい。間違いありません。俺の目の前で、痣が増えていったんです」
「しかし、2年前の事件における7名の犠牲者たちは、誰一人として痣など出さなかったし、殴打される痛みも訴えなかった」
教授はバインダーのページをめくり、ある1枚の資料と、写真を指差した。
「彼ら7名の犠牲者は皆――死の間際、その体内を流れるすべての血が、ドロドロとした『膿』に変わっていたそうだよ」
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