第19話 12月6日 日下部
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すべての講義を終え、静まり返った研究室に居た私は、学内業務という名の退屈な義務から解放され、ようやく自身の知的好奇心を満たすための時間――すなわち、至高の趣味に没頭する時間を過ごしていた。
最近、私の知的食指を動かしているお気に入りのテーマは、『仏教と神道における狐の扱いの違いについて』だ。
世間一般では都合よく混同されがちな「稲荷」と「ダキニ天」だが、双方における狐の宗教的・民俗学的扱いは明らかに一線を画している。この構造の違いを紐解く作業は、実に出色な娯楽と言える。
そもそも、我が国、日本における『キツネ』という概念の変遷は非常に興味深い。
ある地域では『狐持ち』の家系として、周囲からの嫉妬や忌避の対象となり、またある地域では『お稲荷さん』の祟りを恐れるあまり、縁談を断られたという記録すら残っている。最近では白いキツネの姿が見える少女等と言う噂もあり、枚挙に暇がない。
信仰のルーツである総本山・伏見稲荷大社が定義する神聖さよりも、私はその後、俗世の土着信仰と結びついて歪に広まっていった怪異譚の数々にこそ、人間の黒い精神の骨組みを見るようで、より強く惹かれるのだ。長期の休暇を取ることができれば、各地をこの足で散策して回るのも悪くない。
そうして、更なる思考の海に深く潜り込もうとした、まさにその時だった。
コンコン。
密室の静寂を破る、遠慮がちなノックの音。
夜遅く、しかも私の大事なこの知的探求の時間を邪魔するのは、一体どこの不躾な闖入者だろうか。私は小さく溜め息をつき、最低限の文字数で応じた。
「はい」
『夜分遅くに失礼します。人文学部3年の、萩原です』
扉の向こうから聞こえたのは、聞き覚えのある女子学生の声だった。
私の講義を受講している生徒の一人だが、このような非常識な時間に、一体何の用だというのだろう。
「どうぞ」
私が許可を出すと、研究室の重い木製の扉が、控えめに、ゆっくりと開かれた。
「失礼します……」
お辞儀をして入ってきた萩原さんの姿を認識した直後、私はその背後に続くもう一つの影に目を留めた。
そこにいたのは、彼女だけでなく、もう一人、これまた実に見知った人物だった。
「失礼、します……」
「富永君も、一緒ですか」
私の眉が自然と僅かに跳ね上がる。
確か彼は、先日亡くなった皆川さんの事件で、警察から被疑者として嫌疑をかけられていた筈だ。そんな渦中の人物が、夜の大学に姿を現し、しかも私の研究室を訪れるとは。
……これは、予想外に面白い盤面になってきたではないか。
私は、どこか不安げに視線を揺らしている萩原さんと、瞳の生気こそ完全に失われているものの、その奥底に執念のような何かをギラつかせている富永君の二人を交互に見つめ、まずは事実の確認から口を開いた。
「今日の私の講義には、お二人とも姿が見えなかったようですが」
「……すみません」
富永君が掠れた声で短く謝罪する。葬儀や警察の対応でそれどころではなかったのだろう。
「それで、この時間帯の訪問です。これは、大学の事務手続きや講義に関連するお話ですか?」
「……いえ。違います」
萩原さんが、私の目をまっすぐに見つめ返しながら短く、しかし明確に否定した。
大学の用事ではない。つまり、私に対する私的な訪問ということになる。
だが、この面子だ。十中八九、亡くなった皆川さんの件に関することだろう。だが、だとしても、一介の民俗学教授に過ぎない私を訪ねてくる合理的理由がまるで見当たらない。
一応、彼らの口からその真意を確認しておくべきだろう。私はデスクの上で両手の指を組み、視線を二人へ向けた。
「では、私に何の用だね。単なる人生相談なら、時間を改めることをお勧めする」
私の突き放すような物言いに、萩原さんは怯むどころか、先程までの不安そうな雰囲気を綺麗に払拭してみせた。
そして、覚悟を決めた強固な意志をその瞳に宿し、私を真っ直ぐに見つめながら、はっきりとこう言い放った。
「私の親友、そして……トウヤ君――富永君の彼女だった、皆川美希についてです。彼女の身に起きたことについて、教授のお知恵を貸してください」
予想通り、だが降って湧いた心から興味を唆られる事案に対して、思わず口元が緩んでしまう。そして、私の脳は心地よい熱を帯びてゆっくりと回転を始めた。
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