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此岸の境界  作者: 邑沢 迅
3章

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第15話 12月4日 トウヤ

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 警察署、取調室。

 最初は心臓が飛び出るほど緊張したこの狭い空間も、連日通わされるうちにすっかり慣れたものになっていた。窓のない白い壁も、マジックミラーの不気味な反射も、今ではただの無機質な背景に過ぎない。


 進まない捜査に進展が見られないせいか、言葉の端々に少し苛立ちを隠しきれなくなってきた刑事が、机の上の分厚い紙の束からゆっくりと視線を俺に向けた。


「富永くん。連日の協力、感謝するよ。……一応、提出してもらった君のスマホのデータや、当日の詳細なアリバイに、現時点までで矛盾は見つからなかった。だから、毎日の呼び出しは一旦ここまでにしよう」


 そう告げる刑事の表情は、ひどく浮かないものだった。

 第一発見者、しかも被害者の直近の彼氏。警察からすれば、これ以上ないほど怪しい人間を、決定的な証拠がないという理由だけで一度解放することになったのだ。苦渋の決断だったのだろう。


 だが、俺からすればこの結果も当然と言えた。俺は本当にやっていないのだから。


「だがね、勘違いしないでくれ。君の容疑が完全に晴れたわけじゃない。解剖結果に出ている奇妙な数値も、君の言っている供述も、まだまだ腑に落ちないことだらけだ。──近いうちに、また来てもらうことになるだろう。何かあればすぐにスマホを鳴らすから。遠出は控えて、いつでも出られるようにしておいてくれ。いいね?」


「……わかりました」


 俺は短く答えた。

 そうして、俺はようやく連日のように続いた地獄の任意聴取から、一時的に解放されることになった。


 最後まで座り慣れることのなかった、冷たいパイプ椅子から重い腰を上げようとした、まさにそのときだった。

 書類をまとめていた刑事の手が止まり、不意に、トーンを落とした声で口を開いた。


皆川みながわ美希ミキさんのご遺体は、検死解剖を終えて、昨日ご家族の元へと帰ったよ。……今日がお通夜、明日には本葬が行われると聞いている」


「そう、ですか……」


 ミキの葬式。

 そのあまりにも生々しい現実を突きつけられ、俺はただ喉の奥を震わせて、その一言を返すことしかできなかった。頭のどこかでまだ信じられていない彼女の死が、明確になったかのうな感覚。


 そんな俺の様子をじっと見つめていた刑事は、「老婆心ながら」と小さく前置きを付けたうえで、俺の心に更なる追い打ちを掛けてきた。


「その葬儀には……君は参列しないほうがいいだろう。ご遺族も突然のことで気が立っているだろうし、なにより世間的には君はまだ容疑者の一人だ。彼らを余計に刺激しないに越したことはない」


 刑事の言っていることが、残酷なまでに間違っていないことは明白だった。

 もし立場が逆で、俺が遺族の側だったなら、娘の死の直前に一緒にいた男がのうのうと現れたら、間違いなく怒り狂って石を投げ、暴言を吐き散らかして追い出すだろう。俺が行くことは、ミキの家族を傷つける以外の何物でもない。


 刑事は、壁の録音機材のランプがOFFになっていることを視線で一度確認すると、俺に背を向けるように回れ右をした。そして、「これは私個人の独り言だ」とわざとらしく前置きをしたうえで、独りごちるように言葉を漏らした。


「私にも、君と同じくらいの息子がいる。……富永とみながくん、君はまだ若い。未来がある。まだいくらでもやり直せるだろう。……だから、早まったことは、しないでほしい」


 それが、俺が絶望のあまり自ら命を絶つことを危惧しての言葉だと気づくのに、少し時間がかかった。

 刑事はそう言うと、振り返って俺の肩をぽん、と一度だけ強く叩き、そのまま部屋から送り出してくれた。


 彼を責めることなんて、俺には出来なかった。彼は警察官としての仕事を全うしているだけだし、その冷徹さの裏に、確かな人間としての気遣いがあった。


 俺は言葉の代わりに深く一礼だけを返すと、重い足取りで取調室を、そして警察署の建物を後にした。外に出ると、散りかけた木々を揺らす冬の風が、俺の冷え切った身体をさらに凍えさせていった。


 俺はこれからどうすればいいのだろうか。


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