7.
「……嘘だ」
クリスは力なく呟いた。
「そんなことがあるはずない」
ビクトリアは穏やかな表情のまま立っていた。
「信じられない?」
「当然だ!」
「ケイティは私を選んだ!私のために泣き、笑い、ここまで来たんだ!」
その言葉を聞いて、ビクトリアは小さく笑った。
「ふふっ」
「何がおかしい!」
「ごめんなさい。でも、少し可笑しくて」
クリスは拳を握りしめる。
「説明しろ!ケイティ!お前は私の味方だろう!」
呼ばれたケイティは、静かに首を横へ振った。
「申し訳ありません。私は最初から、ビクトリア様の味方です」
「……何だと」
「私は、ビクトリア様に恩があります」
「恩?」
クリスは意味が分からない。
ケイティは静かな声で続けた。
「家が没落し、行く当てもなくなった時、手を差し伸べてくださったのはビクトリア様でした」
「そんな話は聞いていない!」
「申し上げておりませんでしたから」
「じゃあ、どうして私の前に現れた!」
その問いに、ビクトリアが答えた。
「私がお願いしたからよ」
「……は?」
「ジョーンズ家で働いてもらうように頼んだの」
「そんな……」
クリスは後ずさる。
「最初から?」
「ええ、最初から」
部屋は静まり返った。
ビクトリアはケイティを見る。
ケイティも小さく頷く。
そして、
何気ない仕草で、そっと髪を耳へとかけた。
クリスはその動きを見つめる。
「……その癖が何なんだ」
ビクトリアは優しく笑った。
「癖じゃないわ」
「え?」
「あれは私への合図」
「合図……?」
「あなたの前でもしていたでしょう」
「……」
「あなたは一度も気づかなかった」
「部屋を譲った時も、廊下ですれ違った時も、全部、『順調です』という報告だったの」
クリスの顔から血の気が引く。
「あ……」
「あ……」
言葉にならない。
ケイティは静かにビクトリアの隣へ立った。
「ビクトリア様、お約束どおり、最後まで務めさせていただきました」
「ありがとう」
ビクトリアは穏やかに微笑む。
その笑顔を見ながら、クリスだけが立ち尽くしていた。
今になって、これまでの出来事が少しずつ頭の中でつながり始める。
「なぜ、そこまでして……」
その答えだけは、まだ誰も口にしなかった。
◇◇◇
応接室は静まり返っていた。
使用人たちも、誰一人として口を開かない。
ビクトリアは静かにクリスを見つめた。
「理由?」
「そうだ。私を騙してまで、何がしたかった」
しばらく沈黙が続く。
やがてビクトリアは、穏やかに微笑んだ。
「私はね、ずっと離婚したかったの」
クリスは目を見開く。
「……何だって」
「驚いた?」
「当たり前だ!お前は私を支えてきただろう!」
「ええ」
「文句一つ言わずに!」
「ええ」
「それなのに!」
ビクトリアは小さく頷いた。
「だからよ」
「……」
「私はずっとあなたを支えてきた。朝から夜まで働いて、あなたの仕事を手伝って、屋敷を守って、それが妻の務めだと思っていたから」
静かな声だった。
責める口調ではない。
事実を話しているだけだった。
「でも……いつからか気づいたの。私は幸せではない、と」
クリスは何も言えない。
「自分から離婚を望めば、周りはきっと私を責めたでしょう。だから待ったの、あなた自身が離婚を望む日を」
「……」
「その方が自然だから」
クリスは首を振る。
「だからケイティを……」
「ええ、協力してもらったわ。私が頼んだの」
「そんな……」
「あなたは思った以上に単純だった」
その言葉に、クリスは顔を赤くした。
「馬鹿にするな!」
「馬鹿にはしていないわ。事実を言っただけ」
ビクトリアは静かに答える。
そして、机の上に置かれた協議書へ目を向けた。
「あなたが自分の意思で離婚を決め、私は自分の意思で署名した。誰にも強制されていない、だから私は満足よ」
そう言うと、ビクトリアはケイティを見る。
ケイティは一歩前へ出た。
「ビクトリア様、参りましょう」
「ええ」
ビクトリアは微笑む。
そしてクリスへ向き直った。
「最後に一つだけ」
「……何だ」
「ありがとう」
「……は?」
「おかげで」
ビクトリアは、これまでで一番穏やかな笑顔を浮かべた。
「やっと願いが叶ったわ」
そう言い残し、踵を返す。
ケイティもその後に続いた。
応接室の扉が静かに閉まる。
残されたクリスは、ただ立ち尽くしていた。
去っていく二人の足音だけが、静かな屋敷に長く響いていた。
◇◇◇
翌朝。
クリスはいつも通り執務室へ入った。
机の上には書類が積まれている。
「さて」
椅子へ腰を下ろした。
昨日の出来事を思い出す。
「……くだらない」
そう呟いた。
「どうせビクトリアも後悔しているはずだ。少し時間が経てば戻ってくる」
自分に言い聞かせるように笑った。
その時だった。
「旦那様」
使用人頭が部屋へ入ってくる。
「本日中に確認いただく書類です」
「そこへ置いてくれ」
「それから商会との契約書ですが」
「ビクトリアに任せればいい」
使用人頭は困った顔をした。
「奥様は……」
言いかけて口を閉じる。
クリスも気づいた。ビクトリアはもういない。
「……私が見る」
「かしこまりました」
使用人頭は静かに下がった。
クリスは契約書を開く。
数字が並んでいる。何度読んでも意味が分からない。
「……何だこれは」
次の書類を開く。
こちらも分からない。
「誰だ、こんな書類を作ったのは」
近くにいた使用人が答える。
「奥様でございます」
「……」
クリスは黙った。
さらに別の書類。
こちらもビクトリアの字で細かな書き込みがされている。
取引先の好み。
交渉の順番。
注意点。
細かな指示。
「こんなものまで……」
クリスは初めて知った。
自分がただ署名していた書類に、これほど多くの準備があったことを。
昼過ぎ。
「旦那様」
「今度は何だ」
「商会の方がお待ちです」
「通せ」
商人は笑顔で一礼した。
「奥様はいらっしゃいますか」
「……いない」
「では、以前お約束した内容について」
「約束?」
「はい」
商人は驚いた。
「奥様からお聞きではありませんか」
クリスは答えられない。
「それでは、資料をご覧ください」
差し出された紙を見ても、何のことか分からなかった。
商人は困惑した表情を浮かべる。
「また日を改めましょう」
そう言って帰ってしまった。
夕方。
机の上の書類は朝より増えていた。
「旦那様」
「まだあるのか」
「はい」
「今日は確認が必要なものが七件ございます」
「七件?」
「奥様が毎日処理されていた分です」
クリスはゆっくり椅子へ座り直した。
机いっぱいに積まれた書類を見つめる。
昨日までは、朝になれば片付いていた。
それが当たり前だと思っていた。
「……誰が」
小さく呟く。
「今まで、誰がやっていたんだ」
答える者はいない。
執務室には静寂だけが流れていた。
そしてクリスは、目の前の書類の山から、一枚も手をつけることができなかった。




