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夫に愛人を作らせたのは私です  作者: ぽかぽか


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8.

「こちらでよろしいでしょうか」


 ケイティが扉を開ける。

 小さな建物だった。

 けれど窓から光が入り、明るく温かな雰囲気がある。

 ビクトリアはゆっくり部屋の中を見渡した。


「ええ、とても素敵ね」


 机はまだ一つ。椅子も二脚しかない。

 棚には何も並んでいない。

 それでも、ビクトリアは自然と笑みを浮かべた。


「ここが、新しい始まりね」


 ケイティも嬉しそうに頷いた。


「はい、少しずつ整えていきましょう」


 二人は窓を開ける。

 穏やかな風が部屋へ流れ込んだ。


 その日の午後。

 机の上には何枚もの書類が並んでいた。


「こちらは以前から相談を受けていた商会です。新しい取引先ですか」


 ケイティが紙を差し出す。

 ビクトリアは目を通す。

 内容を確認し、すぐに返事を書き始めた。


「ええ、相手の希望はこの条件ではなく、こちらの方が良いわ」

「かしこまりました」

「それから、この数字を少し修正しましょう」

「はい」


 ケイティは慣れた様子で書き留めていく。

 ふと、ビクトリアはペンを止めた。


「どうかなさいましたか」

「いいえ」


 静かに笑う。


「今までは、この仕事を誰かの名前でしていたでしょう?」

「はい」

「これからは違う」


 窓から差し込む光を見つめながら、ゆっくりと言った。


「私自身の仕事になるのね」


 夕方。

 荷物の整理も終わり、二人は椅子へ腰を下ろした。

 ケイティがお茶を淹れる。


「どうぞ」

「ありがとう」


 しばらく静かな時間が流れた。

 やがてケイティが口を開く。


「ビクトリア様」

「何かしら」

「私はこれからも、おそばで働かせていただきたいです」


 ビクトリアは少し驚いたように笑った。


「本当にいいの?」

「もちろんです。私は……」


 そして微笑む。


「ビクトリア様についていきます」


 その言葉に、ビクトリアも優しく笑った。


「ありがとう。では、一緒に頑張りましょう」

「はい」


 二人はカップを手に取る。

 窓の外には、柔らかな夕日が広がっていた。

 ビクトリアはその景色を眺めながら、小さく呟く。


「ここからが、本当の私の人生ね」


◇◇◇


 商会を開いてから、一か月。

 小さな事務所は以前とは見違えるほど活気に満ちていた。


「ビクトリア様」


 ケイティが新しい書類を運んでくる。


「本日のお約束のお客様がお見えです」

「お通しして」

「かしこまりました」


 しばらくして、一人の商人が部屋へ入ってきた。


「お久しぶりです」

「こちらこそ」


 ビクトリアは笑顔で迎えた。

 商人は席へ着くと、安心したように息をつく。


「実は以前から、ぜひ一緒に仕事をお願いしたいと思っておりました」

「ありがとうございます」

「ジョーンズ家にいらっしゃる頃から、お噂は聞いておりましたので」


 ビクトリアは少し驚いた。


「私のですか?」

「ええ」


 商人は笑う。


「旦那様のお仕事だと思われていましたが、実際には奥様のお力によるものだと知る者もおります」


 ビクトリアは静かに微笑んだ。


「過分なお言葉です」

「いえ、事実です」


 商人は契約書を差し出した。


「ぜひ、今後ともよろしくお願いいたします」

「こちらこそ」


 二人は握手を交わした。

 その日だけではなかった。

 翌日も、その翌日も。


「ビクトリア様にお願いしたい」

「以前からご一緒したかった」


 そんな客が次々と訪れる。

 ケイティは驚きを隠せなかった。


「こんなにたくさん……」

「ありがたいことね」


 ビクトリアは穏やかに答える。


「信頼してくださる方がいるのだから」


 忙しい毎日だった。

 それでも、以前とは違っていた。

 夜遅くまで働く日があっても、ビクトリアの表情は明るかった。


 仕事を終えた夕方。

 ケイティがお茶を運んでくる。


「お疲れ様でした」

「ありがとう」


 二人は向かい合って座った。

 窓から柔らかな夕日が差し込む。

 ケイティはじっとビクトリアを見つめた。


「どうしたの?」

「……いえ」

「何かついている?」

「違います」


 ケイティは笑った。


「最近、本当にお綺麗です」


 ビクトリアは少し驚く。


「そうかしら」

「はい。以前は、いつもお疲れのようなお顔をされていました」

「そんなに?」

「はい。でも今は」


 ケイティは嬉しそうに微笑んだ。


「毎日笑っていらっしゃいます」


 ビクトリアは照れたように窓の外を見る。

 街では人々が楽しそうに歩いていた。


「そうね」


 静かな声で答える。


「今は、自分のために働いているもの」


 そう言って笑うビクトリアの横顔は、一か月前とは別人のように穏やかだった。

 その姿を見ながら、ケイティもまた、心から嬉しそうに微笑んでいた。


◇◇◇


 ビクトリアが屋敷を去ってから、数か月が過ぎた。

 ジョーンズ家では今日も慌ただしい声が響いていた。


「旦那様、この書類はいかがいたしましょう」

「後にしてくれ」

「こちらの商会がお待ちですが」

「今日は会えない」

「ですが、お約束が……」

「分かった!」


 クリスは頭を抱えた。

 机の上には書類の山。

 どこから手をつければいいのか分からない。

 以前は気づけば片付いていた。

 予定も、契約も、屋敷のことも。

 すべて当たり前だと思っていた。


「……ビクトリア」


 思わず名前を口にする。

 返事はない。

 部屋には静寂だけが流れていた。

 その時、使用人頭が静かに報告する。


「旦那様」

「何だ」

「本日、お約束していた商会から『今回の取引は白紙に』と断りの連絡が入りました。先方は、ビクトリア様の商会と契約されたそうです」


 クリスは言葉を失った。

 静かに窓の外を見る。

 もう戻ってくることはない。

 その事実だけが胸に残った。


 一方。

 街の中心にある小さな商会。


「ビクトリア様!」


 ケイティが笑顔で駆け寄ってくる。


「今日もお客様が三組です」

「ありがとう」

「午後には新しい契約のお話もございます」

「忙しいわね」

「はい!」


 二人は顔を見合わせて笑った。

 忙しい。けれど苦しくはない。

 自分たちの力で選び、自分たちの力で歩いている。

 それが何より嬉しかった。


 午後になり、一息つく。

 ケイティがお茶を淹れる。


「お疲れ様です」

「ありがとう」

「ビクトリア様」

「何かしら」

「今、とても幸せです」


 ビクトリアは微笑んだ。


「私もよ」


 その時だった。

 コンコン。

 扉がノックされた。


「失礼します」


 若い男性の声が聞こえる。

 ケイティが扉を開く。


「いらっしゃいませ」

「突然申し訳ありません」


 男性は少し緊張した様子で一礼した。


「こちらでビクトリア様が商会を開かれたと聞き、お伺いしました」

「お仕事のご相談でしょうか」

「はい」

「ぜひ、お取引をお願いしたくて」


 ケイティは笑顔で振り返る。


「ビクトリア様、お客様です」

「すぐに参ります」


 ビクトリアは立ち上がった。

 扉の向こうで待つ青年へ歩いていく。


 その表情は、かつてジョーンズ家で見せていた穏やかな笑顔とは少し違う。

 未来を見つめる、希望に満ちた笑顔だった。

 ビクトリアは軽く一礼する。


「お待たせいたしました。私がビクトリアです。どうぞ、お掛けください」


 爽やかな風が窓から吹き込み、新しい一日を運んでくる。

 その風に乗せるように、ビクトリアは静かに微笑んだ。


──彼女の新しい人生は、まだ始まったばかりだった。





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