6.
応接室には静かな空気が流れていた。
机の上には、ビクトリアが署名した離婚協議書が置かれている。
クリスはそれを手に取り、何度も見返した。
そして、口元がゆっくりと緩む。
「これで終わりだ」
満足そうに呟いた。
「旦那様……」
ケイティが遠慮がちに声をかける。
「どうした」
「本当に、よろしいのでしょうか」
「何を言っている」
クリスは笑う。
「これで私は自由だ」
そう言うと、離婚協議書を丁寧に畳み、机の上へ置いた。
「長かった」
「……」
「ようやく望んだ未来が手に入る」
クリスは、隣に座るケイティに向きなおる。
「君のおかげだ」
「旦那様」
「もう遠慮する必要はない」
そう言って、ケイティの肩へ手を置く。
「これからは二人で生きていこう」
ケイティは驚いたように目を見開いた。
「私で……よろしいのですか」
「もちろんだ」
クリスは笑う。
「私には君が必要だ」
その言葉を聞き、ケイティは小さく頷いた。
「ありがとうございます」
クリスはそのまま、彼女を抱き寄せた。
「もう誰にも邪魔はさせない」
部屋にいた使用人たちは、視線を落とした。
誰も何も言えない。
ただ、離婚したばかりの妻がいる前での出来事だった。
「旦那様……」
ケイティは小さく呟く。
クリスは満足そうだった。
ようやく自分の望みが叶った。
そう信じて疑わない。
しかし、その瞬間だった。
クリスには見えない角度で、ケイティの表情が変わる。
先ほどまで浮かべていた、可愛らしい笑顔。
恥ずかしそうな笑み。
それらは静かに消えていく。
残ったのは、何の感情も映さない穏やかな表情だった。
まるで、長い役目を終えた役者のように。
ケイティはゆっくりと目を閉じる。
そして、小さく息を吐いた。
クリスは気づかない。
ただ幸せそうに笑っている。
その腕の中で、ケイティは静かに目を開いた。
その瞳には、もう先ほどまでの恋する少女の姿はなかった。
◇◇◇
「どうした?」
クリスが尋ねる。
「いえ」
ケイティは静かに首を横へ振った。
そして、そっとクリスの腕から離れた。
「ケイティ?」
「少々、お待ちください」
そう言うと、彼女はゆっくりと歩き始めた。
向かった先は、部屋の出口ではない。
ビクトリアの前だった。
クリスは不思議そうにその姿を見る。
「何をしている?」
ケイティは答えない。
ビクトリアの前まで来ると、姿勢を正した。
そして、深く頭を下げた。
部屋にいた使用人たちも息をのむ。
「ケイティ?」
クリスの声が響く。
しかし、彼女は顔を上げない。
静かな声で言った。
「ビクトリア様」
その呼び方に、クリスは眉をひそめた。
「お疲れ様でした」
部屋の空気が止まる。
誰も意味が分からない。
クリスも、近くの使用人たちも、ただ呆然と立ち尽くしていた。
一方、ビクトリアは驚く様子もない。
穏やかな表情のまま、小さく微笑んだ。
「ええ、あなたもお疲れ様」
その言葉を聞いた瞬間、ケイティはようやく顔を上げた。
その表情には、恋する少女の面影はなかった。
凛とした、落ち着いた笑み。
静かな部屋の中、ビクトリアとケイティだけが、互いを見て微笑んでいた。
その光景を前に、クリスは初めて、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
それが何なのか、まだ彼には分からなかった。
◇◇◇
「……どういうことだ」
クリスの声が、静かな応接室に響いた。
しかし、誰も答えない。
ケイティはビクトリアの前に立ったまま、もう一度深く頭を下げた。
「ビクトリア様」
「ええ」
「演技とはいえ、失礼な態度を取り続けてしまい、申し訳ございませんでした」
部屋にいた使用人たちが顔を見合わせる。
演技。
その言葉の意味が分からない。
クリスも眉をひそめた。
「……何を言っている?」
ケイティはゆっくり顔を上げた。
その瞳は真っ直ぐビクトリアだけを見ている。
「奥様のお部屋を奪ったことも、失礼な言葉を申し上げたことも、旦那様の前で勝ち誇ったように振る舞ったことも、すべてお許しください」
ビクトリアは穏やかに微笑んだ。
「あなたはよく頑張ってくれたわ」
「ありがとうございます」
そのやり取りを見て、クリスは苛立ち始めた。
「待て、私を無視するな。演技とは何のことだ」
ケイティはゆっくりと振り返る。
その視線には、これまでの甘えた表情はなかった。
「ビクトリア様」
静かな声だった。
一瞬、ビクトリアに視線を向けたあと、それからクリスを真っ直ぐ見つめる
「この方って、本当に良いところが一つもありませんよね」
「な……っ!?」
クリスは雷に打たれたように目を見張った。
部屋が静まり返る。
クリスは意味が分からない。
「お前……俺に言っているのか!? 」
「ええ。ただの事実を申し上げたまでです」
ケイティはふっと、哀れむような笑みを浮かべた。
「お前……」
その様子を見ながら、クリスだけが立ち尽くしている。
「……誰か説明しろ」
しかし、その言葉に答える者は、誰一人いなかった。




