5.
「最近、ジョーンズ伯爵家が騒がしいらしい」
そんな噂が、社交界でささやかれ始めていた。
「旦那様が若いメイドを随分お気に入りだとか」
「ただの噂でしょう?」
「でも何度も一緒に出かける姿を見た人がいるそうよ」
「奥様がお気の毒ね」
笑い混じりの会話は、あっという間に広がっていく。
その日の午後。
「ケイティ」
クリスが声をかけた。
「はい、旦那様」
「少し街へ行く」
「お供いたします」
「準備をしてくれ」
「かしこまりました」
二人のやり取りを、近くにいた使用人たちは黙って見ていた。
以前なら外出の準備はビクトリアへ伝えられていた。
今は違う、ケイティが当然のように隣にいる。
「奥様」
若いメイドが執務室へ入ってきた。
ビクトリアは書類から目を離さない。
「こちらの契約書ですが、印をいただけますか」
「ええ」
静かに確認し、署名する。
「こちらは商会へ届けてください」
「かしこまりました」
若いメイドは立ち去ろうとしたが、振り返って言った。
「奥様、お昼はまだ召し上がっていません」
「後でいただくわ」
「ですが……」
「仕事が先よ」
メイドは心配そうに頭を下げた。
夕方。
クリスは機嫌よく帰ってきた。
「今日は楽しかったな」
「はい」
ケイティも笑顔だった。
「旦那様、このお菓子、とても美味しかったです」
「気に入ったならまた連れて行こう」
「本当ですか?」
「ああ」
二人は楽しそうに話しながら玄関を通る。
その時だった。
ビクトリアが書類を抱えて歩いてくる。
「お帰りなさいませ」
静かに一礼する。
クリスは軽く頷いただけだった。
「まだ仕事か」
「はい」
「本当に仕事ばかりだな」
「今日中に終わらせたいものがありますので」
「好きにしろ」
そう言って通り過ぎていく。
ケイティも続いた。
すれ違う瞬間、ビクトリアと目が合う。
しかしケイティは何も言わない。
ただ一度だけ、困ったように微笑んだ。
そしてクリスの隣へ戻っていく。
二人の背中を見送りながら、若いメイドが小さく呟いた。
「奥様……」
「どうしたの?」
「皆、噂しています」
「そう」
「悔しくありませんか」
ビクトリアは少しだけ考えた。
そして静かに答える。
「噂はいずれ消えるものよ」
そう言うと、抱えていた書類を机へ置く。
窓の外では、クリスとケイティの笑い声が聞こえていた。
ビクトリアはその声に耳を傾けることもなく、新しい書類を開いた。
机の上には、まだ片づけなければならない仕事が山のように積まれていた。
◇◇◇
それからもクリスはケイティを連れてよく出かけた。
そして、ビクトリアは執務室で帳簿を開いていた。
「奥様」
若いメイドが入ってくる。
「こちら、本日届いた書類です」
「ありがとう」
「それと……」
言いにくそうに俯く。
「旦那様がお出かけになりました」
「そう」
「ケイティさんとご一緒です」
ビクトリアは静かに頷く。
「わかったわ」
「……」
若いメイドは何か言いたそうだった。
けれど何も言えず、一礼して部屋を出ていった。
昼を過ぎても、ビクトリアは机から離れなかった。
昼食も簡単に済ませ、契約書へ目を通す。
数字を直し、返事を書く。
また次の書類を開く。その繰り返しだった。
夕方になり、窓の外から馬車の音が聞こえた。
「旦那様がお戻りです」
使用人たちが玄関へ向かう。
ビクトリアはペンを置き、窓から庭を見下ろした。
馬車から降りたクリスは、楽しそうに笑っている。
その隣で、ケイティも笑顔だった。
「今日は本当に楽しかったです」
「そうか」
「また行きたいです」
「もちろんだ」
二人は並んで歩き出す。
その姿は、まるで夫婦のようだった。
ビクトリアは静かにその光景を見つめる。
すると、ケイティがふと振り返った。
窓辺に立つビクトリアと目が合う。
ケイティは、
何気ない仕草で、そっと髪を耳へとかけた。
ほんの一瞬。それだけだった。
すぐにクリスの方へ向き直り、また笑顔で歩き始める。
ビクトリアはその姿を見送る。
そして、窓から離れた。
机の上には、まだ終わっていない書類が積まれている。
椅子へ座り、静かにペンを持つ。
その時だった。
鏡に映った自分の顔が目に入る。
少しだけ疲れている。
けれど、その口元には、ほんのわずかに笑みが浮かんでいた。
「もう少し……」
誰にも聞こえないほど小さな声。
そしてビクトリアは、何事もなかったように書類へ目を落とした。
部屋には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。
◇◇◇
夕方。
「奥様」
若いメイドが執務室へ入ってきた。
「旦那様がお呼びです」
ビクトリアは手元の書類を閉じた。
「わかったわ」
静かに立ち上がる。
机の上には、まだ仕事が残っていた。
けれど彼女は迷うことなく部屋を後にした。
応接室。
クリスは腕を組み、椅子へ座っていた。
その隣にはケイティが座っている。
ビクトリアは一礼した。
「お呼びでしょうか」
「ああ」
クリスは真っ直ぐビクトリアを見る。
「今日は大事な話がある」
「はい」
「私は、お前と離婚する」
部屋の空気が止まった。
近くにいた使用人が思わず息をのむ。
しかし、ビクトリアは静かにクリスを見つめた。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「もう、お前とは価値観が合わない」
「……」
「お前は仕事ばかりだ」
「はい」
「一緒にいても楽しくない」
ビクトリアは何も言わない。
クリスは続けた。
「私は」
そして、隣に座るケイティを見る。
「彼女と生きていきたい」
ケイティは驚いたように俯いた。
「旦那様……」
「もう決めたことだ」
部屋は静まり返る。
誰もがビクトリアを見る。
怒るのか。
泣くのか。
引き留めるのか。
しかし、ビクトリアは小さく頷いた。
「承知いたしました」
今度はクリスが驚いた。
「……承知した?」
「はい」
「反対しないのか」
「あなたがお決めになったことですから」
「本当にいいんだな」
「はい」
あまりにも落ち着いた返事に、クリスは拍子抜けしたようだった。
やがて机の引き出しから一枚の紙を取り出す。
「離婚協議書だ」
「……」
「ここへ署名してくれ」
ビクトリアは紙を受け取った。
内容へ静かに目を通す。
そして、近くに置かれていたペンを手に取った。
部屋には誰一人として声を出す者はいない。
さらさら、と紙の上をペンが走る。
やがて、最後まで書き終えたビクトリアは、ゆっくりとペンを置いた。
「これでよろしいでしょうか」
そう言って、離婚協議書を静かにクリスの前へ差し出した。




