4.
最近、クリスの執務室には笑い声が聞こえるようになった。
「旦那様、それではこちらへ印を」
「そうか」
「こちらも確認をお願いいたします」
「後で見る」
「駄目です。今です」
ケイティが少し頬を膨らませる。
その様子を見て、クリスは笑った。
「お前は本当に遠慮がないな」
「申し訳ありません」
そう言いながらも、ケイティは笑っている。
以前なら考えられない距離だった。
その日の午後。
ビクトリアは応接室で商会の担当者と話を終えていた。
「では、この内容で進めます」
「よろしくお願いいたします」
客を見送り、執務室へ戻ろうとすると、
庭園の方から声が聞こえた。
「旦那様」
「どうした」
「少しだけ、お時間はございますか」
ケイティだった。
クリスは穏やかな表情で頷く。
「今日はもう急ぎの予定はない」
「本当ですか?」
「ああ」
「では……」
ケイティは嬉しそうに笑った。
「庭のお花が綺麗なんです。一緒に見ていただけませんか」
「花?」
「はい」
「そんなことでいいのか」
「そんなこと、ではありません」
ケイティは少し拗ねたように言う。
「私は旦那様とお話ししたいんです」
クリスは思わず笑った。
「仕方ないな」
二人は並んで庭園へ歩いていく。
その姿を、ビクトリアは遠くから見ていた。
隣にいた使用人が小さく言う。
「奥様……」
「どうしたの?」
「旦那様は最近……」
その先は言えなかった。
ビクトリアは静かに微笑む。
「お仕事がお忙しいのでしょう」
「ですが……」
「私は大丈夫よ」
そう言って歩き出した。
夕方。
ケイティはクリスへ紅茶を運んでいた。
「旦那様」
「ん?」
「お願いがあるんです」
「何だ」
「笑わないでくださいね」
「言ってみろ」
ケイティは少し照れたように俯いた。
「もっと、一緒に過ごしたいです」
クリスは驚いた。
「一緒に?」
「はい」
「それは……」
ケイティは慌てて首を振る。
「すみません!忘れてください!」
「待て」
立ち去ろうとするケイティを、クリスは呼び止めた。
「私は迷惑ではない」
「本当ですか?」
「ああ」
ケイティは安心したように笑った。
「良かった」
その笑顔を見た瞬間、クリスの胸に一つの考えが浮かんだ。
——もし、ビクトリアがいなければ……
すぐにその考えを打ち消す。
しかし一度浮かんだ思いは、簡単には消えなかった。
執務室の窓から夕日が差し込む。
クリスはその光を見つめながら、初めて静かに呟いた。
「離婚……か」
その言葉を聞いた者は、誰もいなかった。
◇◇◇
昼過ぎ。
ビクトリアは完成した書類を抱え、クリスの執務室へ向かった。
軽く扉を叩く。
「失礼いたします」
「入れ」
部屋へ入ると、クリスはソファに腰掛けていた。
その隣には、お茶を淹れているケイティの姿がある。
「こちら、明日の商会との打ち合わせ資料です」
ビクトリアは書類を差し出した。
クリスは受け取るが、机の上へ置いただけだった。
「後で見る」
「一部だけでもご確認ください。先方との約束がありますので」
「急かすな」
「ですが——」
「お前は本当に堅苦しいな」
その一言で、部屋が静かになった。
ビクトリアは小さく頭を下げる。
「申し訳ありません」
「仕事、仕事、そればかりだ」
クリスはため息をついた。
「少しは肩の力を抜け」
「はい」
「その返事も面白くない」
ビクトリアは何も言い返さない。
ただ静かに立っていた。
その様子を見ていたケイティが、おずおずと口を開く。
「旦那様……」
「どうした?」
「私が口を挟んではいけないのですが……」
「構わん」
ケイティは困ったように笑った。
そして、ビクトリアの方をちらりと見たあと、クリスへ視線を戻した。
「この方って、本当に良いところが一つもありませんよね」
一瞬、部屋の空気が止まった。
クリスは苦笑する。
「ははは、そう思うか?」
「はい」
「真面目なのは立派ですが……」
ケイティは言葉を探すように首を傾げる。
「少し怖いです」
「そうだろう」
クリスは笑った。
「昔からこんな性格なんだ」
「でも、旦那様はお優しいですね」
「そうか?」
「はい。私なら怒ってしまいます」
クリスはますます機嫌を良くした。
「お前は素直だから可愛げがある」
「そんな……」
ケイティは恥ずかしそうに俯く。
ビクトリアだけが静かに立っていた。
「他にご用はございますか」
「もういい」
「かしこまりました」
ビクトリアは一礼する。
「失礼いたします」
静かに扉が閉まる。
部屋の中では、クリスとケイティの笑い声が聞こえていた。
廊下を歩くビクトリアは、一度も振り返らなかった。
◇◇◇
朝食が終わった後だった。
「ビクトリア」
クリスが珍しく自分から声をかけた。
「はい」
「少し話がある」
「承知しました」
ビクトリアは食器を置き、応接室へ向かう。
部屋にはクリスだけでなく、ケイティも立っていた。
「何かございましたか」
そう尋ねると、クリスは当然のように言った。
「ケイティの部屋が狭い」
「……そうですか」
「西側へ移してやりたい」
ビクトリアは静かに頷く。
「空いている客室を用意いたします」
「違う」
クリスは首を振った。
「お前の部屋を使わせる」
一瞬だけ、部屋が静かになった。
使用人も思わず顔を上げる。
ビクトリアはクリスを見つめた。
「私の部屋を、ですか」
「ああ」
「ですが、あの部屋には仕事の資料も置いてあります」
「別の部屋へ運べばいい」
「承知しました」
反論はしなかった。
その返事に、クリスは満足そうに頷く。
「話は終わりだ」
「かしこまりました」
ビクトリアは一礼した。
その日の午後。
使用人たちは慌ただしく荷物を運んでいた。
大きな本棚。
何箱もの書類。
机や椅子。
「奥様、本当にこちらでよろしいのでしょうか」
若いメイドが心配そうに聞く。
案内された部屋は、以前の部屋よりずっと狭かった。
「ええ」
「ですが……」
「困ることはないわ」
ビクトリアは微笑む。
「仕事ができれば十分ですもの」
使用人は何も言えなくなった。
夕方。
荷物の整理を終えた頃、ケイティがやって来た。
「失礼いたします」
「どうしたの?」
「新しい部屋を見せていただきました」
「そう」
「とても素敵なお部屋ですね」
「それは良かったわ」
「ありがとうございます」
ケイティは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、近くにいた使用人は複雑そうな表情を浮かべる。
ビクトリアだけが穏やかだった。
「大切に使ってくださいね」
「はい」
ケイティは深く頭を下げると、部屋を出ようとした。
扉の前で、ふと振り返る。
ビクトリアと目が合う。
その瞬間、ケイティは、
何気ない仕草のように、そっと髪を耳へとかけた。
ほんの一瞬。それだけだった。
「失礼いたします」
扉が閉まる。
静かになった部屋で、若いメイドは悔しそうに言った。
「奥様……どうして何もおっしゃらないのですか」
ビクトリアは荷物の入った箱を開けながら、静かに答えた。
「大丈夫よ」
「でも……」
「まだやることが残っているもの」
そう言うと、新しい机へ書類を並べ始めた。
窓は小さくなった。
部屋も狭くなった。
それでもビクトリアは、いつもと変わらない穏やかな表情で、静かにペンを手に取った。




