3.
その日の仕事も終わりに近づいた頃。
ケイティは一人、中庭のベンチに座っていた。
夕暮れの空を見上げたまま、ため息をつく。
「どうした?」
不意に声をかけられた。
振り向くと、クリスが立っていた。
「旦那様……」
「珍しいな。お前が休んでいるなんて」
「少しだけ、風に当たっておりました」
「体調でも悪いのか?」
「いいえ」
そう答えたものの、ケイティの表情は晴れない。
クリスは隣に座ると、
「何か悩みでもあるのか」
「……ありません」
「顔に書いてあるぞ」
優しく言われると、ケイティは俯いた。
しばらく沈黙が続く。
やがて、小さな声が聞こえた。
「私、この屋敷へ来られて幸せでした」
「それは良かった」
「皆様も優しくしてくださいました」
「そうだな」
「でも……」
言葉が止まる。
クリスは静かに待った。
ケイティはぎゅっとスカートを握りしめる。
「これ以上は、いけないんです」
「何がだ?」
その問いに、ケイティは首を横に振った。
「言えません」
「言ってみろ」
「言えません……」
その声は震えていた。
そして次の瞬間、ぽろり、と涙が落ちた。
「おい」
「ごめんなさい……」
「どうした」
「こんな気持ちを持ってしまうなんて……」
「気持ち?」
ケイティは涙を拭いながら言った。
「奥様がいらっしゃるのに……」
その先は言葉にならなかった。
クリスは目を見開く。
やがて、静かに口を開いた。
「お前は悪くない」
「ですが……」
「人の気持ちは、自分ではどうにもならない」
ケイティは首を振る。
「忘れます」
「忘れなくていい」
「でも……」
「泣くな」
クリスはそっと肩へ手を置いた。
驚いたようにケイティが顔を上げる。
「旦那様……」
「もう一人で抱え込むな」
その言葉を聞いた瞬間、ケイティは堪えていた涙を流した。
「申し訳ありません……」
小さな体が震える。
クリスは思わず、その肩を抱き寄せた。
「大丈夫だ」
「……」
「私がいる」
中庭には夕日が差し込んでいた。
遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。
その頃。
執務室では、ビクトリアが一人で書類をまとめていた。
使用人が部屋へ入ってくる。
「奥様、本日の書類はこちらで最後です」
「ありがとう」
「旦那様へ確認をいただく予定でしたが、お姿が見当たりません」
ビクトリアは手を止めた。
「そう」
「お探ししますか?」
「いいえ」
静かに首を横へ振る。
「急ぐものではないわ」
そう言って書類を閉じると、窓の外へ目を向けた。
夕暮れの庭は穏やかだった。
ビクトリアは何も言わず、ゆっくりと机の上のランプへ火を灯した。
◇◇◇
朝食の席。
ビクトリアはいつものように紅茶を注いでいた。
「今日の予定ですが」
一枚の紙をクリスの前へ置く。
「午前は商会の方との打ち合わせ、午後は領地からの使者が参ります」
「ああ」
クリスは軽く目を通した。
「それから、来週の晩餐会ですが——」
「その話は後でいい」
「かしこまりました」
ビクトリアは静かに紙を下げた。
食事を終えたクリスは立ち上がる。
「執務室へ行く」
「はい」
その背中を見送り、ビクトリアも自分の仕事へ向かった。
昼過ぎ。
クリスは執務室で書類を読んでいた。
「失礼いたします」
ケイティがお茶を運んでくる。
「旦那様、お疲れ様です」
「ありがとう」
カップを置いたあと、クリスをみつめる。
「旦那様、少しお疲れではないですか」
「そうか」
「休憩も必要です。無理はしないでくださいね」
「君は優しいな」
「そんな……」
照れくさそうに笑う。
その笑顔を見て、クリスも自然と口元を緩めた。
その日の夕方。
ビクトリアは完成した書類をクリスへ渡した。
「こちらをご確認ください」
「ああ」
クリスは受け取る。
「数字も見直しております」
「そうか」
ビクトリアは必要な説明を続けた。
「こちらの案ですが、来月以降——」
「お前は」
突然、クリスが口を開いた。
「はい?」
「昔から真面目すぎる」
ビクトリアは少し驚いた。
「そうでしょうか」
「ああ」
クリスは椅子にもたれかかる。
「何を話していても仕事の話ばかりだ」
「必要なことかと思いまして」
「それだ」
「……?」
「もっと肩の力を抜けばいい」
ビクトリアは静かに頷いた。
「気をつけます」
その返事に、クリスはため息をつく。
「そういうところだ」
「申し訳ありません」
「お前には可愛げがない」
部屋の空気が静かになった。
ビクトリアは何も言わない。
ただ、静かに頭をさげる。
「ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」
クリスは立ち上がる。
「……ケイティくらい素直ならいいんだが」
そう言い残し、部屋を出ていった。
一人残されたビクトリアは、机の上の書類を整える。
乱れた紙を揃え、インク瓶の蓋を閉める。
そこへ使用人がやって来た。
「奥様」
「どうしたの?」
「旦那様が、今後はお茶や身の回りのことはケイティへ任せるように、と」
「そう」
「……」
使用人は言葉を失う。
ビクトリアは穏やかに微笑んだ。
「では、そのように」
「かしこまりました」
使用人が部屋を出る。
静かになった執務室で、ビクトリアは窓の外を見つめた。
庭ではケイティが別の使用人と話しながら歩いている。
その姿を見ても、ビクトリアは何も言わない。
ただ静かに机へ向き直り、まだ残っている書類へペンを走らせた。
◇◇◇
最近、屋敷の空気が少し変わった。
使用人たちも、それを感じていた。
「旦那様、最近はケイティさんをよくお呼びになるわね」
「執務室へ行く回数も増えたもの」
小声で話すと、二人は慌てて仕事へ戻った。
噂話は主人の耳に入れてはいけない。
それが使用人たちの決まりだった。
その日も、ビクトリアは執務室で書類を整理していた。
「奥様」
扉が開く。
そこにいたのはケイティだった。
「こちら、旦那様からお預かりしました」
一通の書類を机へ置く。
「ありがとう」
「それと……」
ケイティは少し考えるような顔をした。
「旦那様が、今後は私に身の回りの世話をするようにとおっしゃいました」
「そう」
「奥様はお休みください、と」
「わかったわ」
ビクトリアは静かに頷いた。
その様子を見て、ケイティは少しだけ笑う。
「奥様は本当に優しいですね」
「そうかしら」
「私なら……そんなに我慢できません」
「人それぞれよ」
「そうですね」
短い会話だった。
ケイティは一礼して部屋を出ていく。
廊下では、クリスが待っていた。
「終わったか?」
「はい」
「では行こう」
二人は並んで歩き出す。
その姿を、遠くから使用人たちが見ていた。
「最近、本当に仲が良いわね」
「奥様は何もおっしゃらないのかしら」
「きっとご存じないのよ」
誰もがそう思っていた。
夕方。
ビクトリアは書庫から戻ってきた。
廊下を歩いていると、向こうからクリスとケイティがやって来る。
「ビクトリア」
クリスが声をかける。
「はい」
「今日はケイティのおかげで仕事がはかどった」
「それは何よりです」
「やはり気が利く者は違う」
「そうですわね」
ビクトリアは穏やかに微笑んだ。
クリスは満足そうに頷き、そのまま歩いていく。
ケイティも続こうとした。
しかし、その瞬間、ビクトリアと目が合う。
ほんの一瞬だけ。
ケイティは、
何気ない仕草のように、そっと髪を耳にかけた。
そして何事もなかったように頭を下げる。
「失礼いたします」
そう言ってクリスの後を追っていった。
その姿を見送りながら、ビクトリアは静かに立っていた。
近くにいた若いメイドが心配そうに声をかける。
「奥様……大丈夫ですか」
「ええ」
「その……」
「心配してくれてありがとう」
ビクトリアは優しく笑った。
「私は大丈夫よ」
そう言うと、書類を抱え直し、執務室へ戻っていく。
その後ろ姿は、いつもと変わらず落ち着いていた。
けれど若いメイドには、どこか寂しそうに見えた。




