2.
ケイティがジョーンズ家で働き始めて、一か月が過ぎた。
朝早くから廊下を掃除し、食堂の準備をする。
分からないことがあれば先輩メイドに尋ね、教えられたことは何度も繰り返して覚えた。
「ケイティさん、これお願い」
「はい、ただいま」
「こっちも手伝ってくれる?」
「もちろんです」
明るく返事をする姿に、使用人たちも自然と笑顔になる。
「よく働く子ね」
「覚えも早いし、助かるわ」
そんな声を聞いても、ケイティは照れくさそうに笑うだけだった。
「まだまだです」
その様子を、少し離れた場所からビクトリアは見ていた。
「奥様」
使用人頭が近づいてくる。
「良い方を採用されましたね」
「そうね」
「皆とも打ち解けています」
「安心したわ」
ビクトリアは穏やかに微笑んだ。
その時だった。
「何をしている?」
廊下の向こうから声が聞こえた。
クリスだった。
外出から戻ったばかりなのか、外套を使用人へ渡している。
「旦那様、お帰りなさいませ」
使用人たちが一斉に頭を下げる。
ケイティも慌てて一礼した。
「お帰りなさいませ」
クリスは一瞬だけ足を止めた。
「……見ない顔だな」
使用人頭が前へ出る。
「先月から勤めております、新しいメイドでございます」
「そうか」
クリスはケイティを見る。
「名前は?」
「ケイティと申します」
「ふむ」
それだけ言うと、クリスは歩き出した。
しかし数歩進んだところで振り返る。
「仕事には慣れたか?」
突然話しかけられ、ケイティは少し驚いた。
「はい。皆様によくしていただいております」
「そうか」
クリスは満足そうに頷いた。
「しっかり働け」
「はい」
再び頭を下げる。
クリスはそのまま屋敷の奥へ消えていった。
「緊張した……」
小さく呟くケイティに、周りの使用人たちが笑う。
「旦那様は怖くないわよ」
「そうそう。見た目は立派だけど」
「頑張っていれば大丈夫」
ケイティも笑顔になった。
「はい」
その様子を見ていたビクトリアは、静かにその場を離れる。
執務室へ向かう途中、ふと窓の外を見る。
春の風が庭を揺らしていた。
そして廊下では、仕事へ戻るケイティの姿。
その背中を見ながら、ビクトリアは何も言わず歩き出す。
一方その頃。
廊下の角を曲がったクリスは、ふと思い出したように立ち止まった。
「ケイティ、か……」
小さくその名を口にすると、何事もなかったように自身の執務室へ向かっていった。
◇◇◇
ケイティが働き始めてから、さらに数週間が過ぎた。
屋敷の仕事にもすっかり慣れ、使用人たちから頼りにされるようになっていた。
「ケイティ、この花瓶を応接室へお願い」
「はい」
「終わったら奥様へ書類も届けてね」
「承知しました」
軽やかな返事をして、ケイティは廊下を歩いていく。
その姿を見て、年配のメイドが笑った。
「あの子が来てから助かるわ」
「本当に」
「働き者だし、気も利くものね」
そんな会話を耳にしながら、ビクトリアは静かに執務室へ向かった。
今日も机の上には書類が積まれている。
椅子に腰を下ろした時、扉がノックされた。
「失礼いたします」
入ってきたのはケイティだった。
「旦那様へ届ける書類をお持ちしました」
「ありがとう」
ビクトリアは受け取り、中を確認する。
「問題ないわ。執務室へお願い」
「はい」
ケイティは一礼して部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送り、ビクトリアは再び仕事へ戻る。
クリスの執務室では、
「旦那様、奥様からお預かりした書類をお持ちしました」
「ありがとう」
クリスは書類から目を上げる。
「ああ、お前か」
「何かございましたら、お申し付けください」
「この部屋に来るのは初めてだな」
「はい」
短いやり取りだった。
ある日の朝。
ビクトリアは執務室で書類をまとめていた。
「奥様」
使用人頭が部屋へ入ってくる。
「旦那様の執務室ですが、最近は来客が増えております」
「そうね」
「そのため、お茶や書類を運ぶ者を決めた方が効率が良いかと」
ビクトリアは少し考えた。
「では、ケイティにお願いしましょう」
「よろしいのですか?」
「仕事にも慣れてきたもの」
「かしこまりました」
その日の午後。
ケイティは緊張した様子でクリスの執務室を訪れた。
「失礼いたします」
「入れ」
扉を開けると、クリスは書類へ目を通していた。
「お茶をお持ちしました」
「そこへ置いてくれ」
「はい」
ケイティは静かにカップを置く。
緊張していたせいか、少しだけ手が震えた。
「あっ……」
受け皿が小さく音を立てる。
「申し訳ありません!」
慌てて頭を下げる。
クリスはその様子を見て笑った。
「そんなに緊張しなくてもいい」
「ですが……」
「失敗くらい誰にでもある」
ケイティは安心したように息をついた。
「ありがとうございます」
その笑顔に、クリスも機嫌良く頷いた。
「これからも私の執務室を頼む」
「はい」
それからというもの。
「旦那様、お茶です」
「旦那様、こちらが本日の予定です」
「旦那様、この書類をお持ちしました」
ケイティが執務室へ出入りすることが増えた。
ある日、ビクトリアが廊下を歩いていると、向こうから笑い声が聞こえた。
「そんなことがあったのか」
「はい。少し失敗してしまって……」
クリスとケイティだった。
使用人が慌てて駆け寄る。
「申し訳ありません、奥様」
「どうしたの?」
「旦那様がお話しされていて……」
ビクトリアは視線を向ける。
二人はまだ話していた。楽しそうな笑顔だった。
だが、ビクトリアは何も言わない。
「急ぎの用ではないのでしょう」
静かにそう言うと、そのまま歩き出した。
「奥様……」
使用人は心配そうに見送る。
◇◇◇
ある日。
高い棚に置かれた資料を取ろうとしていたケイティは、背伸びをした。
「届かないのか」
後ろから声がした。
振り向くと、クリスだった。
「旦那様」
「貸してみろ」
クリスは簡単に資料を取る。
「ありがとうございます」
受け取ろうとした時、二人の手が少しだけ触れた。
「……申し訳ありません」
ケイティは慌てて手を引く。
「気にするな」
クリスは笑った。
その光景を、廊下の向こうから見ていた使用人が小さく呟く。
「最近、旦那様はケイティさんを気に入っていらっしゃるのかしら」
隣の使用人も頷いた。
「そうね。でも旦那様は誰にでも優しい方だから」
「きっとそうよ」
その会話は、ビクトリアの耳にも入った。
けれど彼女は何も言わない。
執務室の窓際で、ビクトリアは庭を眺めていた。
窓の外では、クリスが偶然通りかかったケイティへ何か声をかけている。
ケイティは笑顔で頭を下げた。
ビクトリアはその様子を静かに見つめる。
そして何も言わず、机の上の書類へ視線を戻した。




