1.
朝の光が、執務室の窓から差し込んでいた。
ビクトリア・ジョーンズは、机の上に積まれた書類へ目を通していた。
領地から届いた収支報告。
商会との取引書。
晩餐会の招待状。
使用人たちの勤務表。
そのすべてに目を通し、必要なものには返事を書き、数字に誤りがあれば直していく。
時計の針はまだ六時を指している。
けれど、ビクトリアの仕事はすでにいくつも終わっていた。
「奥様、お茶をお持ちしました」
使用人頭が静かに入ってくる。
「ありがとう。そこに置いてちょうだい」
ビクトリアは顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
使用人頭は少し心配そうに書類の山を見る。
「奥様、少しお休みになられては?」
「大丈夫よ。今日中に確認しておきたいものがあるの」
「ですが、昨夜も遅くまで……」
「平気よ」
ビクトリアはそう言って、また書類へ視線を戻した。
ジョーンズ家の当主は、夫であるクリスだ。
けれど実際に屋敷を回し、仕事を整え、取引先との関係を保っているのはビクトリアだった。
もちろん、それを口に出すことはない。
妻が夫を支える。
それが、この家で求められている役目だった。
昼を過ぎても、ビクトリアは執務室にいた。
昼食は簡単に済ませ、午後には使用人頭から報告を受ける。
「東の客室の修繕ですが、予定より費用がかかりそうです」
「では装飾を少し抑えて。けれど寝具は質を落とさないでちょうだい。お客様が直接触れるものだから」
「かしこまりました」
「それから、来週の晩餐会の料理は重すぎないものにして。年配のお客様もいらっしゃるわ」
「承知しました」
指示を出しながら、ビクトリアは別の書類に目を通す。
一つ終われば、また一つ増える。
けれど彼女は、不満を顔に出さなかった。
夕方になっても、クリスは屋敷に戻らなかった。
今日は取引先との会食だと聞いている。
けれど、その取引先との話をまとめたのはビクトリアだった。
相手の好みも、避けるべき話題も、交渉で出す条件も。
すべてを書き留め、クリスに渡してある。
あとは彼が、その通りに話せばいいだけだった。
夜が更ける頃。
ようやく玄関の方が騒がしくなった。
「旦那様がお戻りです」
ビクトリアはペンを置き、立ち上がった。
玄関ホールへ向かうと、クリスが上機嫌で外套を脱いでいた。
整った顔立ちに、軽い笑みを浮かべている。
酒の匂いが、少しだけした。
「お帰りなさいませ、クリス様」
ビクトリアが微笑むと、クリスは満足げに頷いた。
「ああ。今日の会食はうまくいった。先方もかなり乗り気だったぞ」
「それは良かったです」
「当然だ。私が話せば、たいていの者は納得する」
クリスはそう言って笑った。
ビクトリアはただ、静かに頭を下げた。
「さすがですわ」
その言葉に、クリスはさらに機嫌を良くした。
「明日も早い。湯の用意をさせておけ」
「はい。すぐに」
クリスはそれだけ言うと、奥へ歩いていった。
ビクトリアはその背中を見送る。
使用人たちも、いつものことだというように動き出した。
誰も、彼女の机にまだ書類が残っていることを知らない。
誰も、クリスが今日使った言葉のほとんどを、彼女が用意していたことを知らない。
ビクトリアは静かに息を吐いた。
そして、執務室へ戻る。
冷めかけた紅茶の横には、未処理の書類がまだ残っていた。
椅子に腰掛け、ペンを取る。
夜はまだ長い。
けれどビクトリアは、いつものように背筋を伸ばした。
「これも、妻の務めですから」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
◇◇◇
数日後。
ジョーンズ家の晩餐会会場には、多くの客が集まっていた。
領地で進めていた新しい事業が成功し、その祝賀パーティーが開かれていたのだ。
「クリス様、お見事でした」
「さすがジョーンズ家の当主ですな」
「これほど見事な計画とは思いませんでした」
次々と向けられる称賛に、クリスは満足そうに笑った。
「いや、皆のおかげだ」
そう言いながらも、その表情は誇らしげだった。
少し離れた場所で、ビクトリアは静かにその様子を見ていた。
「奥様」
声をかけられ、振り向く。
年配の夫人が微笑んでいた。
「おめでとうございます。素晴らしいご主人ですわね」
「ありがとうございます」
ビクトリアも笑顔で答える。
「主人も喜ぶと思います」
夫人は満足そうに頷き、別の客のもとへ向かった。
その背中を見送りながら、ビクトリアは手に持ったグラスをそっと置いた。
その事業計画を考えたのは、自分だった。
利益が出るよう取引先を選び、価格を調整し、契約内容を何度も書き直した。
クリスは最後に目を通し、自分の名で提出しただけ。
それでも構わなかった。
妻とは夫を支えるもの。
そう教えられてきたし、自分でもそう思っていた。
「ビクトリア」
クリスがこちらへ歩いてくる。
「はい」
「今夜は気分がいい。やはり私には才能があるようだ」
「そうですわね」
「最初は難しいと思ったが、話してみれば皆納得した」
「皆様も安心されたのでしょう」
クリスは満足そうに笑う。
「お前も少しは役に立ったな」
「そう言っていただけて光栄です」
その返事に、クリスは気を良くしたようだった。
「今日は祝いの日だ。後で酒を用意させろ」
「承知しました」
再び客に囲まれるクリス。
「さすがです」
「若いのに立派ですな」
称賛の声が絶えない。
ビクトリアは静かに一礼し、その場を離れた。
廊下に出ると、使用人が慌てて駆け寄ってくる。
「奥様、明日の会議用の資料ですが、こちらでよろしいでしょうか」
差し出された書類を受け取り、目を通す。
数字が一か所違っていた。
「ここを直してください」
「申し訳ありません」
「急がなくていいので、正確にお願いします」
「かしこまりました」
使用人は頭を下げて走っていった。
ビクトリアは窓の外を見つめる。
夜空には月が浮かんでいた。
会場からは、今も楽しそうな笑い声が聞こえる。
その中心にいるのは、もちろんクリスだった。
ビクトリアは小さく微笑む。
「今日も、無事に終わってよかったわ」
そう呟くと、誰にも気づかれないように、小さく息をついた。
◇◇◇
ジョーンズ家では、新しいメイドを募集していた。
使用人頭が数枚の履歴書を机に並べる。
「奥様、本日はこちらの三名が面接に参ります」
「ありがとう」
ビクトリアは一枚ずつ目を通した。
家柄、年齢、これまでの勤め先。
どれも悪くはない。
「では、お通ししてください」
「かしこまりました」
しばらくして、一人目の女性が入ってきた。
緊張した様子で挨拶をし、質問に答える。
面接は穏やかに終わった。
二人目も同じだった。
そして最後。
「ケイティ・ブラウン様です」
扉が開き、一人の若い女性が入ってきた。
淡い茶色の髪をきちんとまとめ、少し古くなったワンピースを着ている。
「失礼いたします」
丁寧に頭を下げる姿には、育ちの良さが感じられた。
「どうぞ、お掛けください」
「ありがとうございます」
ビクトリアは履歴書を見る。
没落した男爵家。
父を亡くし、家は爵位だけを残してほとんど財産を失ったと書かれていた。
「働くのは初めてですか?」
「はい。ですが、精一杯務めます」
「屋敷での仕事は朝早く、夜遅い日もあります」
「承知しております」
「慣れないことも多いと思いますが?」
ケイティはまっすぐビクトリアを見つめた。
「覚えます」
その返事に迷いはなかった。
使用人頭は少し心配そうな顔をする。
「男爵家のお嬢様です。慣れるまで時間がかかるかもしれません」
「そうね」
ビクトリアは静かに頷いた。
「ですが、人は最初から何でもできるわけではありません」
そしてケイティへ視線を向けた。
「努力できますか?」
「はい」
「途中で投げ出しませんか?」
「必ず最後までやり遂げます」
その言葉を聞いたビクトリアは、小さく微笑んだ。
「採用します」
「……え?」
使用人頭は目を丸くした。
「奥様、本当によろしいのですか」
「ええ」
ビクトリアは穏やかに答えた。
「経験はこれから積めばいいもの」
「ありがとうございます!」
ケイティは勢いよく立ち上がり、深く頭を下げた。
「必ず期待に応えます」
「焦らなくていいわ」
ビクトリアは優しく言った。
「少しずつ覚えていけばいいもの」
ケイティは何度も頷く。
「はい」
面接が終わり、部屋を出ようとした時だった。
ビクトリアはその背中に声をかけた。
「ケイティ、頑張ってね」
その一言に、ケイティはほんの一瞬だけ表情を引き締めた。
そして静かに微笑む。
「はい、必ず」
その返事を聞いたビクトリアも、穏やかに微笑み返した。




