第6曲 仙人掌と空色木綿
古参研究員ベケルの専門は、黴や酵母などの微生物である。
肉眼では見えないいきものをこよなく愛するベケルの部屋は湿度が高めで、壁はところにより紫だったり蛍光緑だったりと何やら怪しい七色に彩られ、床も椅子も苔に覆われている。
それらの正体を考えなければ、くまとうさぎが森のお茶会でも始めそうな雰囲気で、無邪気な子どもが見ればさぞかし喜ぶだろう。
本人によれば危険な黴や菌類は別の部屋に隔離してあるそうだが、一見さんはまずだいたい室内を見た瞬間尻込みする。
初見でなんの躊躇もなく入ってきたのは今までにふたりだけだと、万年人手不足のベケルは苦々しげに話していた。
最古参であるはずのベケルだが、そんなわけで過去を遡っても弟子はポランとエセンしかいなかった。
なお、肉眼で見えないものを見るには老眼ではさぞかし大変だろう、などと余計なことを云った所員はベケルの逆鱗に触れ、危うく右脛を骨折しかけたと聞いている。
エセンはポランと連れ立って、勝手知ったるベケルの研究室に足を踏み入れた。
普段ならきのこのほだ木が山と積まれた向こうから、入室に気づいた不機嫌そうな老女の顔がのぞくのだが、この日はどうしたことか、室内に最古参研究員の姿は見当たらなかった。
エセンは頸を傾げた。
「出かけてる?」
「いや、灯りがついたままだし、先ほどまでおられたはずだが…」
エセンは、掃き出し窗の外につくられた温室へ向かった。
ポランがあとに続く。
「師匠〜?」
研究所のなかではあるし、海千山千のベケルなので滅多なことはないだろうと、師を探すエセンの聲に危機感はない。
温室のやや深い辺りで、エセンは求める人の背中をようやく発見した。
この一帯はエセン個人の研究に使って良いと、ベケルから間借りしている区画である。
浅黒い肌に、若い頃はさぞかし華やかな美人であったろうと思わせる目鼻立ち。
身の丈は年齢を重ねるとともにだいぶ縮んだのか、女性としてはやや長身であるポランの腰あたりまでしかない。
今日は若草色の髪を無造作にまとめている。
通用門の色は不定期更新だが、ベケルの髪色はほぼ毎日変わる。
かつらかと思った幼少期のエセルが、一度ベケルの髪をむしろうとしたがとれなかった。
どうやら自毛らしい。
その後一か月、疳の虫に効くとかいう恐ろしく不味い茶を毎日飲まされた。
むしろベケルが飲めばいいんじゃないかとエセンは思ったが、それを本人に云わないだけの自制心は一応あった。
ベケルは、エセンがこのところ手間暇かけて育てている生垣の前にいた。
エセンが借り受けている区画の境界線上には、境目の目印として仙人掌がぐるりと一周植えられている。
「っ、あの仙人掌、横に伸びた茎節が動いてないか?」
そろそろと腕を上げたポランが、慄然として目の前の光景を指し示す。
なるほど、よく見れば腕のように伸びた節が、ちょこちょこと動いているようだ。
しかも気のせいか、こちらをそこはかとなく小馬鹿にするような気配を漂わせており、軽く苛立ちをおぼえないでもない。
目を見開いたまま立ち尽くしたベケルの眼前で、花のついた茎節をこれみよがしに振り回す仙人掌。
「え、師匠とうとう死んだ?」
「勝手に殺すな、馬鹿者が!」
ちんまりした老体から秒で大喝が飛んだ。
「あ、師匠が再起動した」
「おぬし、これらはただの鉄条網代わりだと申しておらんかったか⁈」
「師匠、この子の作るものが『ただの』何かであったためしがありますか?」
諦め加減のポランが師匠を宥めるが、わかっちゃいるが、と云いたげな表情でベケルはいったん押し黙る。
「普通の鉄条網だと収容所みたいだから、植物で代用できないか、っていう依頼とってきたの師匠でしょ〜?」
「規格外すぎるのじゃ!何をどうしたらこうなる」
「えぇ⁇仙人掌と蝿取草と歩椰子を交配して、『正義の味方 空色木綿』を歌って聴かせて、」
空色木綿。
まるで健康食として近年流行りの豆腐を彷彿とさせる名称であるが、実在した義賊の通り名である。
いつも空色の手巾を頸もとに巻いていた、と伝えられている。
数々の逸話を元に映画化もされたので、就学前くらいの年頃の児童に絶大な人気を誇り、主題歌をうたえない子どもは国内にはいない、とまで云われる。
「…………その話、副所長の前ではしてやるなよ。古傷を抉るからな…」
「……普通、世を忍んで活動する人って、目立たない格好をしませんか?」
「若気の至りというやつじゃろ……」
「なんで木綿…」
「金がなかったんじゃろ…」
だんだんとベケルの勢いが衰えてゆく。
そういう意味では、若かりし頃の副所長はいい仕事をした。
「まず間違いなく歌は関係ないだろうが、交配しただけでこんなことになるのか?」
「古大陸の遺物に残ってた交配法を試してみたんだけど、うっかり手を滑らせて培養液の配合を失敗しちゃって、でも勿体ないからそのまま使ってみたら、」
「また一発芸のあれか」
「遺物の説明によると、歌は大事だって」
「えぇ〜……」




