変人は大志を抱かない
いつもよりだいぶ遅い時間になってから家を出ることになったエセンは、同じく遅めの出勤をするラハーレの車に同乗して肘置きに頬杖をつき、通りの様子を見るともなく眺めていた。
少し開けた窗から街の喧騒を連れた風が舞い込み、牛酪色の癖毛を揺らしている。
通りの角角には玄人から素人まで、種々雑多な表現者たちが弦を掻き鳴らし、足を踏み鳴らし、または叩きあるいは歌う。
首都クープが別名、「不夜の楽都」と呼ばれるゆえんである。
濃紫の車は、安全運転が売りの運転手シャルリアンテが舵輪を握っている。
南大陸に多い黒檀色の肌に、目鼻立ちはすべからく大ぶりで、極めつけは不毛の大地となった輝かしき禿頭に、色付き眼鏡ときたものだ。
無口なくせにやたらと歌が上手く、いま渋めの嗄れ声で歌っているのは、天上の金糸雀と評される可憐な歌姫の代表曲である。
なお、深窓の令嬢を思わせる名前は正真正銘の本名で、正直者のヨンカなどは「詐欺に限りなく近い」と云って憚らない。
「ビョルクは居場所がないのかな」
ぽつりと呟いたエセンに、ラハーレはほんの僅か、口端にきゅっと力を入れてから肩をすくめて見せた。
「さあ、どうだろう。あの國には同じような状況の子どもなど掃いて捨てるほどいるのだから、彼だけが不幸な身の上というわけでもなし、」
「でも、どう感じるかは人それぞれでしょ?」
「そうだね。そしてそれは、本人が話してくれないことには判りようもないことだ」
ラハーレが大きな掌を宥めるようにエセンの頭へ置いたので、彼女は押し黙ったままひとつ頷いた。
ラーゼ河の三日月橋を渡り、高層楼が立ち並ぶ中心街の手前で車は停まった。
アスラール研究所の通用門前である。
敷地内は煌々と瓦斯燈に照らされている。
わりと浪漫を解しないたちのエセンは電気燈でいいのではないかと思っているが、この瓦斯燈は、水のように流されて生きる副所長唯一のこだわり箇所なのである。
「シャルリアンテ、ありがとう!帰りもよろしくね」
エセンが咲って手を振ると、シャルリアンテが握り拳の親指を立てた状態で前へ突き出して見せた。
「任せろ」とか「いいね!」を示す手振りである。
あんなに歌えるのだから当然話せるだろうに、何故だか身振り手振りだけですべての会話を済ませようとする、堅気に見えない安全運転の騎士シャルリアンテであった。
「今日の門は朱色なのね…」
何やら不思議と拝みたくなる色合いである。
今日の、というのはこの門、不定期に塗り直されているからである。
『塗料の女神』と呼ばれる妖艶美女のお姉様が、新しい塗料を開発しては都度自分で塗りにくる。
朱色と緋色の違いなど、色彩に関しては門外漢のエセンにはちっとも判りはしないが、そんなことを口にすれば小一時間は掴まってご高説を賜ることになるので、あえて突っ込まないことにしている。
色替えについてはともかく、少なくとも研究所に門はある。
しかし塀の他には門柱と屋根庇だけがあって扉はなく、建物の玄関にも扉はない。
開けてあるとかそういうことではなく、扉そのものがついていないのである。
なんぴとも氏素性によらず、才能と探究心のみによって受け入れるという研究所の理念をあらわすものだそうだが、おかげで雨季にはかなり面倒なことになるので、初代所長は未だ所員からの怨嗟の聲を草葉の陰で聞く羽目になっている。
「自業自得じゃ」とは、古参研究員ベケルの言である。
研究所の生き字引と云われるベケルは、まるで初代所長の所行をその目で見てきたかのような物云いをすることがままあるが、そうするとちょっとだいぶ年齢が合わないので、研究所七不思議のひとつとされている。
これもまた、突っ込めば地獄を見る案件なので、真相は永遠に藪の中である。
その閉められない出入口に、女性がひとり立っていた。
赤銅色と蜂蜜色の入り混じった虎柄の短髪。
素朴な亜麻布の襯衣に黒の長い裳裙を纏い、作業用の前掛けを重ねている。
なんというか、研究員よりも麺麭屋の女将でもやっていそうな骨柄だ。
体幹は引き締まっており、しっかりした二の腕の信頼感が半端ない。
「ポラン!帰ってたのね!」
エセンがぱっと貌を輝かせて走り寄る。
中堅どころの研究員ポランは、ふた親との縁薄かったエセンにとって、母親とも姉とも云うべき存在である。
「エセン、元気にしていたか?しばらくぶりだな」
ポランは『胃腸の守護神』と渾名され、薬学研究の第一人者である。
研究対象は何も胃腸薬だけではないが、納期と論文の締め切りに追われる所員たちの、気の毒な胃袋を劇的に救済する薬を生み出したため、副所長をして「研究所の守護神として、未来永劫語り継がれるであろう」と云わしめた。
身分制度がない、と云っても王侯貴族がいないだけであって、世襲制をとる組織がないわけではない。
アスラール研究所の場合、研究一辺倒の所員たちが軒並み面倒な立場を嫌ったため、仕方なく初代所長の子孫にあたる人々が所長職を引き受けてきた。
昨年、田舎で療養するという名目で引退した(あるいはさせられた)先代所長はエセンの叔父で、先先代は実父であるが、どちらも研究者としては凡庸な部類であり、その水面下で、個性豊かすぎる所員たちがなかなかの自由度で羽を伸ばしきっていた。
過日、研究所を視察した某第十七王子が、「此処は変人の楽園である」との名言を残している。
「東南諸島群はどうだった?」
「ああ、流行り病でひどい有り様だったが、なんとか落ち着いたよ。一年余りで片がついたのは奇跡だね。とはいえ、その間にうちのかわいい秘蔵っ子が人妻になってしまって、手紙で知ったときの衝撃と云ったらなかったよ」
エセンはくすぐったそうに咲って、ポランに抱きついた。




