第40曲 花の森ふたたび
目を開けると、あの花の森にいた。
今回は覚醒している最中に連れて来られたからか、前回よりも意識がはっきりした状態でエセンは周囲を見回した。
以前と同じく色鮮やかな蝶が花から生まれ、泡のように消え、また生まれを繰り返している。
《急いで、エセン。ここは時の流れが違うから、時間の経過を感じにくいの。うかうかしているとあっという間に七日が過ぎて、戻れなくなってしまうわ》
すぐそばを碧瑠璃の蝶が飛んでいる。
先ほどから頭の中に聞こえる声は、もはや疑いようもなくこの蝶のものなのだろう。
現実世界では話しかけてこないことからして、夢の中でだけ会話ができるようだ。
「え、ここは時が止まっているはずでしょ?」
《世界が重なり合う七日という期間がある以上、時間の概念自体はあるのよ。この中にいる限りは歳をとらないけれど、戻った途端に過ぎた分の時間が一気に進むわ》
それは恐ろしい、とエセンは太い茎の間を縫って進む足を早めた。
「龍の仔はどうなのかしら。ここから出たら急に歳をとってしまうんじゃない?」
《龍の仔は、半物質的生命体だから時間の影響を受けにくいということもあるけれど、冬眠状態にされて第八世界へ送り込まれたから、体内時間はほとんど進んでいないのよ。だから、ここを出たからといって急に老いることはないわ》
蝶の乱れ飛ぶ花の森をさまよい歩くうち、ようやく白い被毛がちらりと見えた。
小走りに近づき、くるりと丸まった躰にそっと手を当ててみる。
《さぁ、起きなさい。迎えに来たわ。一緒に帰りましょう》
碧瑠璃の蝶が周囲をひらひらと不規則に舞いながら呼びかける。
エセンも一緒になって、揺すりながら繰り返し呼びかけるうち、ようやくわずかな反応が見えた。
白い躰がぴくりと動く。
その瞬間、何かに弾かれるような感覚があり、視界がくるりとひっくり返った。
あまりの急展開に驚く暇もなく、一瞬のうちに花の森は跡形もなく消え去っていた。
ぱちぱちと瞬きをするエセンは、いかにも安っぽいつくりの飲食店らしき場所に立っていた。
揚げた馬鈴薯と肉の匂いがする。
客はたくさんいるものの皆、背景のごとく存在が薄く、ひとり突っ立っているエセンを気にする様子もない。
「あれー、もしかしなくても君、あっちの世界から紛れ込んできちゃったね?」
近くで呑気そうな声がしてそちらを見れば、眠そうな顔をした三十歳前後ほどの男が二人掛けの席について、肉と幾ばくかの野菜を挟んだ丸い麺麭にかぶりついている。
凹凸の少ない薄い顔立ちで、中央大陸にはほぼいない人種と思われたが、エーレで使われている言語を正確に発音している。
手招きされて、エセンは男の向かいに座った。
「あっちの世界って?」
君、動じないね、と眠そうな目をしたまま男は笑った。
「第七世界。神々が最も愛した楽園だよ。第六世界はあまりにも科学技術が発達しすぎて、人の情愛は薄っぺらいし、誰も彼もが苛々せかせかして、戦争ばかりしているわけさ」
だから、第七世界にはあえて科学とは相反する、まるで魔法のような超科学要素を残したのだ、と。
「そんな第七世界に俺がこっちの文明を持ち込んじゃったもんだからさー、あとになってだいぶ苦情言われたなー。飛行機もパソコンも携帯電話も、まだできるはずじゃなかったのに、ってさ」
ん?とエセンは首をかしげた。
なんだか、どこかでとってもよく聞いたような話である。
「あのー、失礼ですがお名前は?」
「あ、俺?ヒロシだよ」
「第七世界にいたときのお名前は?」
「あー、なんだっけ?なんかくそ長ぇ名前だったから覚えてないわ。その前がこの第六世界でキヨシって名前だったからさ、それを使ってたよ」
やっぱりキヨシだったか、とエセンは半眼になった。
「私、子孫のエセンです。初代所長」
一応、相手はご先祖さまなので、丁寧に喋ってみる。
「子孫?!えー、まじか。なんかアヌソラちゃんに似てるなーと思ってたんだよなぁ。いやぁ、感慨深いなぁ」
《発言が軽すぎるわぁ》
エセンの肩先に止まった碧瑠璃の蝶が、いみじくもエセンの心情を代弁してくれた。
気持ちを切り替えて、この空間へ来ることになった経緯を説明すると、元キヨシはふぅん、とあごに手を当てた。
「たしかにその蝶は、もう少しで瑞蝶になるんだろうけど、まだあと一歩というところだな。目を覚ましたばかりの白龍の仔が混乱して、見知らぬ気配のエセンを敵と誤認して排除しようとした、そんなところじゃないか?」
それでも普通なら遠くへ飛ばされるくらいで済んだものを、ちょうど千五百年に一度の、世界が重なり合う時期だったため、第八世界そのものから弾き出された。
そして碧瑠璃の蝶が瑞蝶へ完全に格が上がっていたならばともかく、あと少し足りなかったがゆえに力及ばす軌道がずれ、第六世界の方へ流されてしまった、ということのようだ。
《私が未熟だったせいね、ごめんなさいエセン》
「いや、それはもういいんだけど。おかげで収穫もあったというか、」
エセンはちらりと元キヨシを見た。
「いや、大してなかったかもしれないけど」
「おまえさあ、見た目だけじゃなく、中身までアヌソラちゃんにそっくりだなぁ」
弱った、と言いたげに頭を掻く元キヨシはきっと、人生を終えるまでずっと妻の尻に敷かれていたに違いない。
「それでご先祖さま、ここからどうやって出たらいいかわかります?」
「そりゃおまえ、ここは俺の夢だから出るのは簡単だけどさ、要は元の世界に戻りたいんだろ?そういうときゃ、ほれ、惚れた男のひとりやふたりくらい、いんだろ?」
「ふたりもいないけど、まあ」
だんだんぞんざいな言葉遣いになりつつある、不肖の子孫エセンである。
こうなってみると、第八世界へ飛ばされる直前、ラハーレと和解できていて良かったと、心底思う。
もし仲違いしたままであったなら、惚れた男と言われてラハーレを思い浮かべたとしても、果たしてあの場所へ帰っても良いのかという迷いが、多少なりとも生じていたかもしれない。
《つまり、エセンが元の世界にいる誰かの元へ帰りたいと強く願ったそこに、座標を定めて飛んだら良いのね?》
「理論上はそうな…あいや待て待てちょうちょ娘、おまえせっかちすぎんだろ!」
慌てる元キヨシの姿がぼやけ始めた。
「エセン!あのさ俺、こないだ超可愛い娘が生まれたんだ。ハルコって名付けたよ!」
諸事情をどうやってか知った上での発言か、それとも何も知らないでの野生の勘か、元キヨシは餞別にそんなことを言ってよこした。
ハルコがあの『青胡』なのか、あえてエセンの方も聞かなかった。
ただ、この人に育てられる子どもは、何だかんだで幸せだろうと思う。
エセンは少しだけ強がって、にやりと笑って見せた。
「ご先祖さまの恥ずかしい日記は、オードとベケルが塔の閉架書庫に入れてたわ。ちょっとした仕返しですって」
えーーーーー!と叫ぶ形に口を開けた顔を最後に、元キヨシの姿は靄に呑まれ、薄れていった。




