第39曲 離婚しません
イーロゥは、棚から蝶の画集を出してきてくれた。
「君の左手とよく似た模様の蝶が、地下神殿にある礼拝所の硝子絵に描かれているんだよ」
「そうなの?知らなかったわ」
宗教的なものにはあまり関心のないエセンは、礼拝所に足を踏み入れたことがない。
該当の頁を開くと、たしかに模様も色もよく似ている。
「古代の瑞蝶は、さまざまな色のものがいたらしいから、そのうちのどれかなのかもしれないね。七つの世界をも巡っていたと伝わっているが、」
それは小さな蝶にとっては、とてつもなく壮大な旅であったことだろう、とイーロゥは鳶色の瞳を笑ませた。
「瑞蝶はどうやって生まれるのかしら」
「私の故郷の伝承では、かつて人であった存在の想いだけがこの世を漂ううちに、もはや人としての生を忘れ、蝶の形をとったものが葬送蝶になると。その中から他者への奉仕の心を持つようになった個体が格を上げていくことで、いずれ瑞蝶になるとされているよ。世界各地に少しずつ異なる伝承があって、どれが正しいのか今となってはもうわからないけれどね」
それが真実であるなら、母の思い残しはなんとしても叶えなくてはいけないようだ。
イーロゥの店を出て停留所まで歩く途中で何気なくちらしを受け取ったエセンは、帰りの乗合自動車に揺られながら、ちらしに目を落とした。
二十一番街付近の住宅斡旋の広告だった。
なかなか手頃な価格で、住みやすそうな戸建や集合住宅が並んでいる。
隣に座ったジンシャーも、横目でそれとなく覗き込んでいた。
館に戻ったエセンは、そのまま自室へ直行し、鋼琴の下へ潜り込んだ。
ジンシャーも近くで丸くなり、前脚に顎を載せている。
左手の蝶はすでに画集に載っていたそのままの、黒褐色の縁取りに鮮やかな碧瑠璃にまで変化していた。
《エセン、行きましょう。もうあまり時間がないわ。この世界と第八世界がほんのいっときだけ接触しているこの七日間のうちに、あちらへ行って帰ってこなくてはならない。いまを逃したら、次は千五百年後になってしまうの》
遠くから呼びかける声に、エセンは夢うつつに答える。
(だけど、どうやって行くの。行き方がわからないわ)
《大丈夫、この前の夢は偶然じゃないわ。古大陸から救援信号を送った人が、特別な仕掛けをつくっていたのよ。信号を受け取った誰かがいたら、その誰かの夢と、第八世界の瑞蝶の見る夢が繋がるようにね》
(じゃあ、あれは蝶の見る夢だったの?)
《ええ。瑞蝶の夢に入り込んだあの時、私はまだ存在が薄かったけれど、座標は覚えてる。それにエセンのおかげで、今の私は瑞蝶にまで引き上げられたわ。だから、》
そこで、エセンの意識は強制的にうつつへ引き戻された。
肩を強く揺さぶられている。
「エセン、エセン!」
久しぶりに間近で接したラハーレは、目の錯覚かと思うほどのほんの一瞬、今にも泣きそうに見えた。
鋼琴の下から引きずり出され、ラハーレに抱きすくめられたエセンは、まだ少しぼうっとしている。
「、ラハーレ……?」
「二十一番街の男と会っていると聞いて……それにこの家を出るつもりなのか?君が住処を探しているようだとヨンカが言うから、離婚を考えているのかと、確かめようと声をかけてもまるで反応がなくて、もうこの世界には戻ってこないのかと、」
日頃、理路整然と話すラハーレにしては、ずいぶんと混乱した話しぶりだ。
それだけ動揺しているのだと理解したエセンは、母性に似た何かを覚えて胸が締めつけられるような心地になった。
「離婚は、」
「しないよ、離婚には応じない」
食い気味に答えるラハーレに、エセンはふふ、と笑った。
「うん、離婚しないね」
「ああ、しない」
ようやくラハーレの肩から力が抜ける。
ジンシャーが、やれやれ、と言いたげに鼻を鳴らした。
その時、エセンの左手から剥がれるようにして、碧瑠璃の蝶がふわりと浮かび上がった。
ラハーレが息を呑むのと、ジンシャーが警戒の声を発するのが同時だった。
エセンの視界が青一色に埋め尽くされた。




