第38曲 蝶と珈琲と紳士
結果、エセンは現時点では妊娠していないと、ポランのお墨付きをもらった。
ポランは医者ではなくあくまでも薬学の専門家だが、仕事で大陸中、さらには他大陸にまで赴くこともあり、時に医療の手の及ばない寒村などで産婆の代わりを務めることもある。
そんな事情で、妊娠の有無を判定するくらいは、ポランにとっては容易なことではあるが。
「本当なら、結果を偽ってでも止めたいところだよ、エセン。医療関係者の端くれとして、真実を伝えないわけにはいかないけれども」
さしものポランも渋い表情だ。
心配してくれるポランに対して申し訳ない気持ちがありながら、それでも引けないエセンである。
「私が逆の立場だったとして、長い時を超えてようやく届いたお願いが握りつぷされたら、絶望的な気持ちになると思うの。自分がされて嫌なことは人にもすべきじゃないし、自分がしたことはいつか自分に返ってくるものでしょ?」
ごもっともな言い分に、ポランも苦く頷かざるを得ない。
「、わかった。それなら私は、応援まではできないけれど、無事に戻ってくるのを祈っているよ」
「ポラン、ありがとう!」
エセンは満面を輝かせてポランを抱擁した。
ポランの研究室を退室したエセンは車の迎えを待たず、研究所の扉のない出入り口から建物の外へ出た。
塗料の女神レゼーラは、そろそろ色の種類を増やすのに限界を感じたのか、もしくはただ単に飽きただけか、最近は模様に凝っているようだ。
通用門の鉄柵が今日は虎柄に塗られており、しかも、やたらと写実的である。
全体的には無骨な建物や塀の中でそこだけ異質な、例えるならば東の文化にある茶席なる格式高い催しにて、揚げ馬鈴薯を出されるようなものであろうか。
通用門のすぐ脇に乗合自動車の停留所があり、ちょうどやってきた便にエセンはひとりで乗り込んだ。
円卓の間で物別れに終わったあと、ラハーレとは同じ館に暮らしながらもお互いになんとなく気まずいまま、ほとんど話もできていない。
夫婦の共用寝室にも行きづらくて、またもや鋼琴の下に逆戻りしてしまったエセンなのであった。
今後のことを考えると、第八世界へ向かうまでの間は寝室を分けた方が良いのかもしれないが、彼とここまで仲違いするのは出逢って以来初めてのエセンとしては、なんとも拠り所ない心地がするのもまた事実である。
通路を挟んだ隣の席に帽子を目深にかぶった紳士が座っており、その斜め前に少し背の丸まった老婦人がやってきた。
婦人の歩みが遅かったこともあり、席に腰を下ろす直前で運転手が自動車を発車させ、婦人がよろめいたところを、斜め後ろから紳士が腕を伸ばして支えた。
婦人の懐から、小銭がころころと転がり落ちたので、エセンも席を立って拾い集めた。
拾った小銭を恐縮しきりの老婦人に渡すとき、婦人を支えていた紳士と目が合った。
穏やかで堅実に日々を過ごしている人の眼差しだと、エセンは思った。
テンの相馬眼ほどではないが、それなりに修羅場をくぐってきた彼女は、ある程度人を見る目が備わっており、この紳士に関しては嫌な印象を受けなかった。
老婦人を席に落ち着かせたのち、紳士はこれも何かの縁と名刺を手渡してきた。
『蝶と珈琲 亭主 イーロゥ』とあった。
二日後の休日、エセンはひとりで館を出て、乗合自動車で二十一番街へ向かった。
ひとりのつもりだったが、いつの間に乗り込んだか、気づくと隣の席にジンシャーが何食わぬ顔で香箱座りをしていた。
どうやら目的地まで着いてくるつもりのようだ。
「たまにひとりで外出すると、ちょっとした冒険みたいでわくわくするわね」
エセンが話しかけても、ジンシャーは興味なさそうに欠伸をするばかり。
このところ、エセンとラハーレがお互いを避けている様子なのを、ジンシャーとしてはよく思っていないらしく、少しばかり冷たい態度を取られ続けている。
そのくせこうして着いてきたりもするので、何を考えているのだか、とエセンはため息をついた。
二十一番街は治安は悪くないものの、どちらかというと変わった店が多い。
一般的な商店では手に入りにくい特殊な品物を求める人々が集まるため、奇抜な格好をしている人を多く見かける。
それぞれが自分の好む分野以外にはさして関心がなく、他者がどれだけ型破りであろうとも互いに気にしないため、少数派を自認する人にとっては息をしやすい地域と言えるだろう。
蝶の形をした鈴が、扉の開閉に伴ってちりりんと鳴った。
開けた瞬間に珈琲の香りがふわりと漂う。
店内は渋い色味の胡桃材が使われており、重厚さもありながら天井が高いので、適度に開放感もある。
半分は珈琲屋、もう半分は蝶に関する商品を扱う店舗になっているようだ。
珈琲屋の奥に設けられた一面硝子張りの小部屋に、エセンは目を奪われ立ち尽くした。
原生林を思わせる荒々しさを残した木々や羊歯植物が繁茂し、その周りを鮮やかな色の蝶が気ままに飛んだり翅を休めたりしている。
「美しいでしょう?」
接客台の向こうから、イーロゥが歩み寄って来た。
喫茶には中途半端な時刻ということもあって、他に客はいないようだ。
「いらっしゃい。珈琲はお好きだろうか」
「ええ、好きよ」
「では、美味しい珈琲をお淹れしようかな」
穏やかに頬咲んで、イーロゥは接客台の奥へ戻って行った。
エセンは少し悩んでから、接客台の外側に並べられた背の高い椅子によじ登った。
ジンシャーは大人しく椅子の足下にうずくまっている。
飲食店で動物連れはどうかと思ったが、元より蝶の店でもあり、イーロゥは気にしないようだ。
「あ、美味しい」
「それは良かった」
地下神殿の卵珈琲や揚げ麺麭やとはまた違う系統の珈琲で、やや玄人好みかもしれないが、エセンの口には合った。
「あの蝶の部屋は、とても幻想的ね」
「子どものころから蝶に心惹かれてね。趣味が高じて、こうして店まで持つに至ったんだが。お嬢さんの手に蝶の紋が描かれているのを見て、お好きなのかなと思ってね、失礼ながら声をかけてしまったよ」
「あ、エセンです」
「あらためて、亭主のイーロゥだ」
見た感じではラハーレよりもいくらかは若そうだが、語り口はもう少し上の年配者のような落ち着きがある。
もしもラハーレと離婚することになったら、二十一番街に部屋を借りて、休日はこの店に通うのもいいかもしれない、とエセンは思った。




