第37曲 花の産卵
エセンは不思議な花の森に囲まれていた。
茎は見上げるほどに高く、頭上に咲き乱れる花が今にもこぼれ落ちそうだ。
鈴蘭に似た花は、ひとつひとつが少しずつ異なる色の仄かな光を発している。
花がまとう光は次第に輝度を増してゆき、最高潮に達したところでまるで珊瑚の産卵のように、ぽんと勢いよく花と同じ色の蝶が放出される。
蝶が生み出されると、光は急速に色彩と輝きを失っていくが、少しすると先ほどとは別の色に光り出し、また蝶が生み出されるのだ。
うっすらと夢の感覚はありながらも、エセンは夢か現かをあまり意識することなく、ただひたすらにこの幻想的な光景に目を惹きつけられていた。
ふと、太い茎が立ち並んだ向こうに、何か白いものが横たわっているのが見えた。
新雪を思わせる白く柔らかそうな被毛をまとい、茎の隙間からわずかに見える部分が呼吸に合わせて静かに上下している。
夢の中のエセンはその正体を詮索することなく、おそれもなく、ただこれは自分が知っている存在であるという感覚だけが、胸の奥深くに浮き沈みしていた。
青い空のひとかけらが剥がれ落ちてきたかのように、碧瑠璃の蝶が一頭舞い降りてきてエセンの左手に止まった。
甲に止まったままゆったりと翅を動かしていた蝶は、しばしののち溶けるように輪郭が滲み、皮膚の内側へ吸い込まれていった。
驚きにはっと意識が引き戻される感覚がして目を覚ますと、戸外では遅い午後の傾き始めた位置から、陽光が木々の葉叢越しに降り注いでいる。
隣では、日頃エセンよりも早くに起き出していることの多いラハーレが、静謐な寝顔を見せていた。
夢を思い出し、何とはなしに左手の甲に目をやると、黒褐色の線の内側が、仄かに青みがかって見えた。
はて、と右手を見れば、そちらの蝶はなんの変哲もない褪色し始めたばかりの濃い褐色の線があるばかりで、線の内側は通常の肌色である。
両手の甲を並べてみれば、違いは一目瞭然だった。
「、ん?」
思わず漏れた小さな疑問の声を拾ったか、ラハーレが身じろいだ。
「、どうした?」
「………ん〜、どうしたかな、」
どうしてこうなったか、エセンにもよくわかっていないが、状況的に夢と無関係でないことだけは確かだろう。
両手の甲を揃えて夫の鼻先へ持っていくと、たっぷり瞬き十回分以上は沈黙してから、ラハーレはおもむろに掛け布団を剥いで起き上がった。
つまり評議会案件か、と察したエセンも寝台から這い出して、寝巻きに裸足のままラハーレにくっついて回る。
「たぶん、あの仔がそうだと思うの。本当に夢みたいにきれいな所でね、あ、実際夢なんだった。でね、」
エセンにまとわりつかれながらも、あっという間に身繕いを終えたラハーレは、おしゃべりが止まらない代わりに手が止まっているエセンを着替えさせてから、ヨンカを呼んで彼女を食堂へ連れて行かせると、自身は電話室へ向かっていった。
いつの間にか仙人掌くんと名のついていた新型仙人掌のうちの一体が、エセンたちが食用仙人掌の素揚げを食べているのを見て、衝撃を受けたように慄いた。
「だいじょうぶだよ、これ、さぼくんのなかまじゃないからね」
やさしいビョルクが慰めてやっている。
ちょっとしょぼんとした風に、棘と花のついたてっぺんを項垂れさせているのが、仙人掌ながらなかなかにあざとい。
そうこうするうちに呼び鈴が連打されたかと思うと、迎えに出るまでもなく、執事ラプソンを振り切ったレゼーラが走り込んできた。
「ただじゃ終わらないと思ったけど、やっぱりこういうことになったか!」
挨拶もすっ飛ばして、レゼーラはエセンの両手に飛びついた。
「うん、右手は褪色の具合も自然だね。問題の左手は、染料の色もほとんど褪せていないし、何より線の内側のこの青は、まぁそもそも何も塗ってないわけだけど、ちょっとこれは肌にのせた染料ではなかなか出せない色だよ」
「起きた直後よりも、若干青みが濃くなっている気がするんだが、」
「あ、ラハーレもそう思う?」
「なんだ、やっぱりあんたたち、最近はちゃんと一緒に寝てんだね」
下世話に揶揄しながらレゼーラは妖艶に笑った。
塔の円卓の間には、評議会員五席のほか関係者として御老公とレゼーラも呼ばれていた。
ラハーレ邸に来ていたレゼーラも一緒に車で塔へ向かうと、すでに他の出席者は揃っていた。
「エセンちゃんやー、大丈夫かー!!!!」
御老公に耳元で叫ばれたオードが、氷菓頭痛のような表情をしている。
「うゎ、本当にめちゃくちゃきれいな青じゃない?」
「あー、また色が濃くなってるかも」
左手の蝶は、今や水宝玉くらいの色味になっている。
「まるで生きているみたいよねぇ」
「実際、そうなんだろうよ」
呼び出されたマリアロは、厳かに頷いた。
「すでにお伝えしたように、過日の一件でエセンさん、あなたの生み出した葬送蝶は、そのほとんどが世界の境目を繋ぐ役割を担うことになりました。ですが、あなたの友人を運んだ一頭はその役割を離れて、あなたの助けになりたいと希望しています」
エセンは、え、と小さく唇を開いた形のまま、自らの左手甲を見下ろした。
「葬送蝶は本来、個としての欲をほとんど持たない存在であり、与えられた役割に忠実な生命体ですが、この個体に限ってはあなたへの恩と親愛を強く感じているようで、ついて行きたいと言うので、役目を外れる許可を出したのです」
この葬送蝶を瑞蝶にまで格上げできれば、第八世界へ行って還ることも不可能ではなくなると、マリアロは言った。
「第八世界は、時の止まった世界と聞き及んでおります。時のない空間に生身の人間が入り込むことは通常、危険すぎてお勧めできませんが、深い信頼関係で結ばれた瑞蝶の助けがあるなら、可能性は十分に出てきます」
「それは、悪くしたらそこへ入り込んだまま、戻って来られなくなるということじゃな?」
海老茶色の髪のベケルが、険しい顔つきで問いただす。
マリアロは首肯した。
「はい、現時点では成功と失敗、どちらの可能性もありますが、」
「容認できない!」
ラハーレが押し殺した声で叫ぶように、マリアロの言葉を遮った。
エセンの両肩を両手のひらで包み、わずかに揺らすようにして訴えかける。
「前回は君の友人や、この世界そのものがかかっていたから、多少の危険も承知の上で動かざるを得なかったが、今回はそこまでの緊急性はないはずだ。君が戻って来られなくなる可能性があると知って、送り出すことはできない」
「私も同意見よ。見も知らぬ人のために、あなたが命をかけるなんて、」
シャンスもラハーレを援護したが、エセンの表情は硬いままだ。
「そうだぞ、お前、もしかしたら胎に命を宿してるかもしれんのだからな」
オードの指摘に、皆がはっと息を呑んだ。
「エセン、さすがに今回は皆の言うことを聞いておいた方がいいよ」
「悪いことは言わん、自分の身を大事にしておくれ」
皆が口々に引き止めようとしてくるのを、エセンは目を伏せたまま黙って聞いていた。
やがて顔を上げた彼女の琥珀の双眸には、決然とした光が宿っていた。
「ポランに診てもらうわ。それで大丈夫だったら、私は行く」
それを聞いたラハーレが、やや乱暴な仕草でエセンの肩から手を離し、苛立ちも露わに横を向いた。




